原罪と救い・・・生まれながらに負っている罪深さについて


 キリスト教では、人間の罪について、人間の罪深さ、

 本性的に持っている人間の罪深さについて明らかにするわけです。

 人間は、生まれながらに罪深い性質を負っているということを、

 イエス・キリストの十字架の死による贖いの(あがない)の出来事の内容と意味とを解き明かすことを通して、

 人間の生まれながらに負っている罪深さ・・・を明らかにすることができるのです。

 この世界を造られた創造主なる神は、

 神のひとり子であるイエス・キリストに、

 私たちの罪をその身に負わせになり、

 その身に神の怒りを下されたのです。

 だれひとりの例外もなく、

 すべての人間には ”原罪 ”があるということを、

 この生まれながらに負っている罪深さという性質が、

 私たちの思いや言葉や行為、行動にあらわれてくるのです。

 その思いや、言葉や、行為などによって、

 この世界を造られた創造主なる神にたいして、

 人にたいして、自分にたいして罪を犯しているのです。

 しかし人は、そうだとは気づいてはいません。

 だからよけいに罪深いのです。

 これには、当然のこととして報いがやってきます。

 必ずやってくる ”来るべき時 ”、

 神の裁き・・神のさばきとして待ち構えています。

 生きている人も、かつて生きていた人も同じです。

 審判のときがやって来るのです。

 でも、イエス・キリストが、

 私たちに代わって神の怒りをその身に受けてくださったと信じるなら・・・・、

 罪の代価をその命をささげることによって支払ってくださったと信じるなら・・・・。

 そのイエス・キリストにたいする信仰によって、

 神の裁きから救われるのです。

 この救いこそ、キリスト教の言う ”救い ”の本質的な意味なのです。


 「もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、

 なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、

 ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章17節・新改訳聖書)


 私たちは、現実の暮らしの中で「救い」というものを考えるとき、

 さまざまな困難からの救いを考えます。

 経済であったり、金銭的な問題であったり、

 戦争や、人間同士の争い事かもしれません。

 人間関係の不和かもしれません。

 病気や健康のことかもしれません。

 しかし、それらは、本質的にそれらを招いた原因があること・・・。

 それをキリスト教は問題にするわけです。

 本質的で根本的な事柄からの救いなくして、

 現実的な事柄からの救いはないのです。

 ですから、人間が持っている生まれながらの罪性を問題にするわけです。

 そのようにして初めて、人間の罪深さ、そして罪の赦し、

 神の裁きからの救いということがらが明らかとなるのです。


北白川 スー

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Wrote up: 14 March 2010.