教会に集まる人たち
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イエス・キリストは言われました。
「 医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、
罪人を招くためである。」
(新約聖書・マルコによる福音書・2章17節・新共同訳聖書)
病気になった人が医者を必要とするように、
キリストの助けを必要としている人たちのために、
教会はそのとびらを開けはなっている・・・。
医者を必要とするのは健康な人ではなく病人だということです。
つまり聖書的な言い方をすれば、
教会は罪人の集まり、罪人の共同体だということになります。
しかし、日本での解釈は、違っているようです。
あなたは罪人ですと言えば、たいていの人は傷つきます。
怒ってしまう人が多いことでしょう。
日本の教会は、
まるでそれが教会の性質であるかのように、
社会の中での役割を受け持たされています。
心の病を負っている人たちや、
社会の人間関係に身を置くことができなかった人たちや、
現代社会の病理の中で傷ついてしまった人たちの受け皿としての役目を負うものだと・・・。
社会の中で、組織や共同体の中で孤立してしまった人たちも教会にやってきます。
イエス・キリストは、
”正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである”と言われました。
しかし、教会に助けを求めてやってくる人たちの、
ある、傾向は。
日本の国民性てでしょうか、一般的な傾向でしょうか。
自分の失敗や無知を認めたくないと思う人や。
人間関係の中で見下されたり、
ばかにされてひどい扱いを受けたり・・・。
自分のプライドを傷つけられ耐えられなくなって・・・。
自分は正しいのに、まわりは分かってくれない・・・。
だから、自分の義を教会に求めるように、
自分の居場所を求めて、身の置き場を求めて・・・。
自分の生き方や考え方にたいして肯定的な言葉や態度を求めて教会にやってくる・・・。
では、なんのためにイエス・キリストは十字架に死なれたのでしょうか。
正しい人のために死なれたのでしょうか。
キリストは罪人のために死なれたのです。
罪を認めない神のひとり子イエス・キリストは、
十字架にかけられ、罪人として処刑されました。
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事は、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事です。
すなわち、キリストの贖罪という出来事は、
私たちすべての人間の、創造主なる神への罪から救うため、
神のひとり子キリスト・イエスが、
すべての人間に代わって、その罪を身に負い、
十字架にかかって死なれたという・・・出来事は、
この世界は、私たち人間を造られた創造主なる神の目から見て、
堕落している証拠なのです。
罪の中から逃げることも救われることも出来ない状態でなかったなら、
救い主キリストがこの世界に生まれる必要などないのですから。
「 もしひとりの人の違反により、
ひとりによって死が支配するようになったとすれば、
なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、
ひとりの人イエス・キリストにより、 いのちにあって支配するのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章17節・新改訳聖書)
神の前で正しい者として認められるのは、
自分の罪を認め、悔い改め、
神との和解を成し、
罪を赦された者でなければなりません。
日本ほど恥を嫌う民俗性は他にありません。
自分の失敗と無知とを認めることを認めようとはしない社会なのです。
そのような社会の中で、
キリストの教会は、人間の罪深さを解き明かさなければ、
人間の罪について語らなければ、
キリストの福音を、
日本人に理解させることは難しいのではないでしょうか。
北白川 スー
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Wrote up on September 22 , 2012.