罪というテーマを


 キリスト教の教会で ”人間の罪 ”というテーマが取り上げられないのなら、

 それは中味のない缶コーヒー、気の抜けたビールのようなものです。

 問題とされる ”罪 ”とは、

 生まれながらに負っている罪のことです。

 「 原罪 」・ゲンザイ・と言います。

 私たちのすべての背景にあるもの、みなもとにあるもの、

 すべてに影響を与えているものなのです。

 私たちの思いであれ、言葉であれ、行為や行動であれ、

 その背景にあるものなのです。

 原罪・・生まれながらに負っている罪、

 私たちの思いや言葉や行為行動に影響を与えて、

 自分にたいして、人にたいして、

 そして神にたいして罪を犯すのです。

 私たちがときどき罪を犯すから罪深いのではなく、

 もともと罪深いから、ときどき罪を犯してしまうのです。

 それも、自分で分かる罪もあれば、

 自分では分からない罪もあります。

 やっていることが悪いことだと分かるときも、

 分からずやってしまっている場合もあるのです。

 なぜ罪深いのかと言えば、

 原罪の起源ということになります。

 人間の始祖であるアダムが、

 つまり被造物である最初の人間が、

 創造主であるところの神に背いてしまったため、

 エデンの園で、取って食べると死ぬから取って食べてはいけないという神の命令に背いて、

 「善悪の知識の木の果実」を取って食べたため・・・・。

 創造主なる神に背いたため、最初の人間に続く人類は、

 ことごとく罪深さという性質を負って生まれてくることになったのです。


 「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、

 また罪によって死がはいってきたように、

 こうして、すべての人が罪を犯したので、

 死が全人類にはいり込んだのである。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章12節・口語訳聖書)


 この出来事がそもそもの始まりです。

 この罪、創造主なる神に背いたという罪については、

 当然のこととして、神の審判・裁きという問題が残ります。


 「なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、

 善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、

 それぞれ報いを受けねばならないからである。」

 (新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章10節・口語訳聖書)


 これでは救いはありませんので、

 創造主なる神は、ひとり子イエスをこの世界に生まれさせ、

 人間にたいする報いを、

 つまり神の怒りを、イエス・キリストの上に下し、

 イエスの命を、その代価として、

 私たちの罪を贖って(あがなって)くださったのです。

 この出来事こそが、イエス・キリストの十字架の死による贖いの出来事なのです。

 この出来事を信じることによって、

 罪の赦しと、神の裁きからの救いが、

 信仰者に与えられるのです。


 「 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章10節・口語訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up: 10 May 2010.