東日本大震災・どこへ連れて行こうとしているのか
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 具体的に語られず、見えず、不安だけが残るという・・・、
 最近の空気はなんとなくそのようです。
 メッセージというものは、
 私たちを、どこへ連れて行こうとしているのかを明らかにするもののはず、
 そもそもそのようなものです。
 東日本大震災によって痛めつけられた私たち・・・。
 しかし、依然として、何が起きているのか正確に伝えられず、
 伝わってはこない。
 報道・メディアは、熱心に伝えているように見えて、
 情報が満ちあふれているかのように見えて、
 その実、キャスターの言葉は、
 ライターの文字は、
 いつも優先しているのは、
 自分はどう思うかということである。
 自分の思うことを他者に伝えたいという強い欲求がそこにかいま見える。
 それによって、現在のメディアは成り立っているように見える。
 自分の意見をぺらぺらしゃべって、
 ニュースがバラエティー化してしまった日本のメディア。
 すべてを失ってしまった被災者、そして町々・・・。
 最大の関心事は、
 自分たちを、どこへつれて行こうとしているのかということではないだろうか。
 いや、自分たちは、どこへ行くのだろうか。
 人の性格として、
 人は、自分の持っている情報に頼り、すがろうとする。
 その情報は、すこぶる少ないものであるからです。
 情報の少なさを指摘すれば、その人は必ず怒りだす。
 メディアには最新の機材がそろっている。
 情報を集め、また、その情報の元へ、それを帰す。
 それを可能にするだけの機材はあまりある。
 しかし、被災地には情報は届かない。
 メディアは、顔と顔とを見合わせて情報を伝えることをしない。
 実際のところ、いま何が起きているのかさえ伝わっては来ない。
 あるのは不安だけなのです。
 明日への希望など、どこを探せばあるのか・・・。
 すべてを失った町々、そして被災者。
 はたして、それらを元通りにすることが復興なのだろうか。
 元通りにすれば、いずれ同じ災害を再び繰り返すことになる。
 失ったことへの反省と、
 再び繰り返さないための悔い改めが求められている。
 ライフスタイルの転換を求められていると言っていいのではないか。
 ゴールが見えない走りなど、つらくてしかたがない。
 ゴールが見えてこその復興ではないだろうか。
 復興のゴールを明らかにしなければ、
 今を生きることなど不安でしかたがない。
 復興のゴールを展望することこそ菅さんの役目ではないのか。
 キリストの福音であっても同じことが言える。
 イエス・キリストの十字架の出来事の解き明かしを、
 教会が語らないところに問題が存在している。
 キリストの福音が語られるなら、
 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事の内容と意味とが解き明かされるなら。
 人は自分の愚かさ弱さを自覚させられるはずである。
 福音は、決して成功への近道ではない。
 福音によって自分の欲望がかなえられると思ってはならない。
 福音によって自分の夢が実現すると思ってはならない。
 キリスト教の基本は、
 人間は、見いだされる前に、
 つまり、迷いからさめる前に、
 まず、自分がすっかり迷っていることを自覚する必要があることです。
 人は、迷いからさめたとき、
 そのときこそ大きな喜びのときなのです。
 そうしてこそ、はじめて、いま来た道を引き返して、
 より良い道へ、希望に満ちあふれた道を見いだすことになるのです。
 人生の目標が・ゴールが定まるのです。
 日本人の美徳として、相手を立てる・というものがある。
 しかし、それを福音宣教に適用すれば、
 福音は正確には届かないのではないか。
 イエス・キリストは言われた。
 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
 天の御国とは、この世界を造られた神の支配・神の意思・神の価値観という意味である。
 主語は神にあり、決して私たちにあるのではない。
 私たちは、ただ神の恵みを受け取るだけなのです。
 信仰により、恵みによって救われるのです。
 それが今を生きる喜びなのです。
北白川 スー
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Wrote up on 10 May 2011.