福音というものを考えるとき
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たしかに、福音を除いた信仰は存在します。
本質的なものではなく、付属したものに。
信仰すること自体に信仰している場合もあります。
行為による救いと言っていいでしょう。
しかし、聖書は、行いによっては、
決して救われないと明確に言います。
「なぜなら、わたしたちは、
人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、
信仰によると考えるからです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章28節・新共同訳聖書)
「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章10節・新改訳聖書)
ですから、福音とは何かという問いかけは、
常に必要不可欠だと言っていいのです。
人間の魂の救いにかかわることだからです。
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の出来事・・・を。
すなわち、神の究極の決断と行為によって、
福音の神を、
神ご自身によって指し示された方法によって、
知り、理解し、言い表すことを求めるからです。
それこそが神からの恵みなのです。
信仰とは、
福音においてご自身を知らしめる神に身を向けることを意味しますから、
「実に、信仰は聞くことにより、
しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳聖書)
人間の魂が救くわれるためには、
神の福音における自己告知を、
自分のために起こったこととして承認し、認識し、
告白することを求めるのです。
自分こそ十字架にはりつけになる罪人なのに、
私に代わって十字架に死んでくださった・・・と。
キリストは、私に代わって神の怒りの裁きを、その身に受けてくださったと。
「口でイエスは主であると公に言い表し、
心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、
あなたは救われるからです。
実に、人は心で信じて義とされ、
口で公に言い表して救われるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9〜10節・新共同訳聖書)
キリスト教の布教とは、
人間を、神にたいする信仰へと目覚めさせ、
呼び起こすことを言うわけですから、
神ご自身によって指し示された方法によって、
すなわち福音によって、
福音を、知り、また理解し、さらに言い表すことを求めるのです。
福音すなわち、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという出来事を。
北白川 スー
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Wrote up on December 13, 2016.