罪の痛みに苦しむとき
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 人は、自分らしく・・・とか、
 自分さがし・・・・とか、
 自分のやり方や考え方にこだわり、
 そのことばかりを心に思いこみ忘れられないとき、
 それが正しく、自分を幸せに連れていってくれると信じているなら。
 さらに、外に向けて、
 自分を正当化しようとすることにエネルギーをついやすなら、
 待っているものは、
 痛みや苦しみ以外のなにものでもありません。
 私たち人間は、創造主なる神の作品であることを忘れて、
 自分の方式に執着するあまり、
 自分自身を追い詰め、
 大切なもの、重要なものを取り逃がしてしまっているのです。
 私たち人間は、そのように創られた存在ではありません。
 私たちには、存在する理由があり、
 定められた位置というものがあることを・・・。
 神を中心とした、同心円上に私たち人間は、
 すべての人間は存在していることを・・・。
 福音とは、ゴスペルとは、良き知らせとは、
 すなわち、
 ひとりの人がすべての人のために死んだという、
 神のひとり子・イエス・キリストの十字架の出来事は、
 まさしく、そのことを証ししているのです。
 「 主は万軍の神、その名は主である。
 それゆえ、あなたはあなたの神に帰り、
 いつくしみと正しきとを守り、
 つねにあなたの神を待ち望め。」
 (旧約聖書・ホセア書・12章5〜6節・口語訳聖書)
 私たち人間を造られた創造主なる神に立ち返るなら、
 もともとの位置に、原点に返るなら、
 自分の立っている位置というものを受け入れるなら、
 つまり、神を中心とした生き方に立ち返るなら・・・。
 それは、祝福された人生へとつながるのです。
 今の痛みや苦しみを、
 創造主なる神にゆだね、
 そのひとり子・イエス・キリストを見上げて歩もうとするなら・・・。
 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事を見上げて人生を歩むなら・・・。
 祝福された人生へとつながるのです。
 イエス・キリストの十字架の出来事こそ、
 罪を負って生まれてきた者にたいする、
 神の救済の意志と、
 その実現の啓示なのですから。
 神の啓示そのものなのですから。
北白川 スー
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Wrote up on 24 October 2011.