スピリチュアルな回心


 なんだか難しいことを言っているようですが、

 聖書・バイブルは、

 人間には、霊の思いと肉の思いがあることを明らかにしています。


 17・・「 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。

 肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。」

 16・・「・・・・・・霊の導きに従って歩みなさい。

 そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」

 (新約聖書・ガラテヤの信徒への手紙・5章17・16節・新共同訳聖書)


 私たちは、所有することを欲し、物を欲しがり、

 手に入れること、

 持つことの多さが心の豊かさにつながると思い込んでいるのが現実の人間の姿です。

 持つことが心の豊かさにつながると・・・。

 それが肉の欲です。


 「 肉の業は明らかです。

 それは、姦淫、わいせつ、好色、

 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、

 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。」

 (新約聖書・ガラテヤの信徒への手紙・5章19〜21節・新共同訳聖書)


 聖書は、決して持つことによっては心の豊かさにつながるものではない・・・と指し示しているのです。

 持つことによって、

 大量の消費によって、

 周りの環境や人々に、

 生態系に、どのような影響を与えているのか・・・、

 考えようとはしないのが現代社会であり私たち人間です。

 まったく関心がないとも言えそうです。

 現代は浪費の時代と言っていいでしょう。

 消費することによって経済は豊かになると信じているのですから。

 その結果も、私たちは知っています。

 しかし、見て見ぬふりをしていると言っていいでしょう。

 環境を壊してしまった張本人は、

 私たち人間なのですから。

 スピリチュアルな回心とは、

 つまり環境にたいして、地球や、自然や、気候や、動植物や・・・、

 それら、すべての生態系の、

 その背後にあるものへの責任ということです。

 私たちを取り巻く環境の変化は、

 私たち人間のわざの結果なのですから。

 ”環境にやさしい ”というスローガンは、

 私たちの行為や行動を容認しているものにすぎません。

 そうではありません。

 本質的には、環境にたいして責任を持つことです。

 聖書は、この世界は、また人間をも含めて、

 すべてのものは神が創造されたと語っています・・・・。

 つまり、私たち人間も神の作品ですから、

 私たちを含めて被造物全体への責任を持つということ、

 それがスピリチュアルな回心と言えます。

 壊れてしまった環境への責任のために、

 これからの暮らしの方向を劇的に変えるということです。

 環境にやさしくどころではありません・・・。

 クリスチャンが、

 聖書的な価値観や世界観を発信していくことによって、

 私たち人間には、肉の望む行いと、霊が結ぶ実とがあることを明らかにすること。

 霊の思いと肉の思いとは相反するものであることを明らかにして、

 決して物を持つことによっては心は豊かにならないことを明らかにしていかなければなりません。

 霊が結ぶ実とは、


 「・・・霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」

 (新約聖書・ガラテヤの信徒への手紙・5章22〜23節・新共同訳聖書)


 この世界を創造された神にたいして栄光を帰すこと。

 被造物としての人間が、

 創造主なる神の栄光をあらわし、神を喜ぶ・・・。

 それがスピリチュアルな回心なのです。


北白川 スー

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Wrote up on 20 October 2011.