キリスト教信仰って何
ずいぶんと長くクリスチャンをやっています。
クリスチャンになったきっかけと言えば、
キリスト教のラジオ放送を聞いて、福音を知ったわけです。
老練な神学者が語りかける信仰について、
私なりに知的に理解しようとつとめました。
そのような中で、キリスト教的に言えば、
” 信仰を与えられた ” わけです。
また、
人文系の大学の図書館に通って、
神学者の著作集や、
キリスト教の教理や教義について、また説教集を読みあさりもしました。
しかしどうでしょう。
” 福音 ” と言われるものの本質に届いていたかと問い直せば、
それは疑問の一言に尽きます。
福音・すなわち良き知らせと言われるもの、
それは、イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)の業(わざ)というものです。
日本人のクリスチャンに ” 福音って何ですか ” と問えば、
多くの場合、このような答えは返ってはきません。
イエス・キリストの十字架の出来事を抜きにして信仰を持つことも可能なのです。
私自身も、イエス・キリストの十字架の出来事が見えはじめたのは、
ずいぶんと後のことになります。
そのイエス・キリストを、
イエス・キリストの十字架の死による贖いの出来事を信じて、
自分の人生の中で、
イエス・キリストに信頼をよせて、
イエス・キリストに聞き従う信仰生活に
信じて生きるというスタイルが生まれたのは、ずっと後のことなのです。
聖書は、
神の中に生き、また存在することを、
すべの人格的行動が、常に神に信頼することに基準を置くという・・、
神の影響のもとに存在する人生を送ることを歌っています。
「 こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。
事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。
われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。
あなたがたのある詩人たちも言ったように、/『われわれも、確かにその子孫である』。」
(新約聖書・使途の働き・17章27〜28節・口語訳聖書)
日本のクリスチャンに問えば、
答えの多くは、
イエス・キリストを信じて生きる。
教会生活に・・神の家族の中で生きる・・・。
イエス・キリストを自分の心に招く・・・。
イエス・キリストとの霊的な交流を持つ・・・。
自分の願いや求めが実現するように信仰を持つ・・・・。
また ” 救い ” について問えば、
自分が置かれている困難や苦しみや悲しみから救われることが救いだと・・・。
信仰を持つにことになったきっかけが、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという、
その内容と意味とを聞いたことによって、
信仰を持つようになったという答えは、まず皆無でしょう。
キリスト教信仰のスタンダードは、
イエス・キリストの十字架の出来事の内容と意味とによって、
神を見いだし、神を知り、神の意思を理解し、またその力の及ぶ中で生きることができる・・・。
これに尽きるはずなのですが。
キリスト教信仰というスタイルの中に生きることも可能なのです。
信仰に信仰するとでも言えるかもしれません。
私たちの精神性が、あまりにも、
この世界を造られた神の意思から遠く離れてしまっているのかもしれません。
神とは何か・・・・・。
私たち人間は、” 神を知るために生まれてきた ”。
これが天地創造、そして人間をも造られた目的なのですから。
神を知ることをどこかに置き忘れてきた人間たち・・・、
だからこそ、そこにイエス・キリストの十字架の死による贖いの出来事が、
私たちに示されたのです。
神の啓示として。
言い方を変えてみましょう。
聖書の標準は、
危機感を持った宣教と同時に、
危機を回避できた喜びに満ちた信仰生活が同時に進行しているとでも言えばいいでしょうか。
どちらにせよ、危機感からほど遠いのが日本のキリスト教界なのかもしれません。
「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、
その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。
『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです。
というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、
神の怒りが天から啓示されているからです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章17〜18節・新改訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up: 07 June 2010.