教会の権威



日本の街々にあるキリスト教の教会は、
おせじにも、好意的に見ても、地域社会に根ざしているとは言いがたい現状にあります。

教会のある地域社会の精神的な支えに、
またその中心にあるとは決して言える状態ではないのです。
社会生活に根ざしている教会として、そして信仰の中心として、
日々の暮らしと切っても切れない関係にある、つながりのあるものとして、
同じ地平にあるものとして、同じ線上にあるものとして、
その存在が、地域住民に等しく認められているわけでもなく、
日々の暮らしから切り離されたものとして、
社会生活から離れたところに位置するのが日本のキリストの教会なのです。

バイブル・聖書は、イエスについて次のように描写しています。
「人々は、その教えにおどろいた。
それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、
権威ある者のように教えられたからである。」

(新約聖書・マルコによる福音書・1章22節・新改訳聖書)

キリスト教の教会が、
多くの人たちの人生にとって、日々の暮らしにとって切り離せないものとして、
人生を支えるものとして映るなら、
人々はキリストの教会に、その教えを聞きに来るだろう。

キリストの教会が、ああしてはいけない、こうしてはいけないと言うのなら、
実際、窮屈なところのように思われているのだから。
自由に考え、自由に行動することなどできないところだと思うことだろう。

教会は、決して人を裁く ”さばく”ところではない。
イエスも言っている。

「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、
あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られからです。」

(新約聖書・マタイによる福音書・7章2節・新改訳聖書)

信仰というものが、人間の部分で判断されるなら、
実際問題として、日常の暮らしの中で起きてくるさまざまな問題が教会に持ち込まれて来る。
夫婦間のことであったり、子どもの教育のことであったり、
生活のことであったり、経済的なことであったり。
多くの人たちが、
教会がそのような事柄に答えてくれるところだという意識があるから、
持ち込まれてくるわけです。

それらすべては、人間の ”罪深さ”、本来的な本質的な性質そのもののなせるわざなのです。

イエスは明確に語っている。
「この世の心づかいと富の惑わしとが ”みことば”をふさぐため、実を結ばない。」
(新約聖書・マタイによる福音書・13章22節・新改訳聖書)

信仰というものが、私たちの生きる過程とともにあるものであって、
信仰によって、問題を解決したり、富を得ようとするようなものではないのです。

目的を果たすための、ただ単なる方便や方法に過ぎないのなら、
決して、権威あるものとはならないでしょう。

それが生きて行くための礎・いしずえになるのなら・・・。

どうだろうか、私たちはキリストの教会というものを、どのように見ているだろうか。
本来なら社会自体が負わなければなない役割を教会に肩代わりさせてはいないだろうか。
社会的弱者を受け入れる施設のように受けとめてはいないだろうか。

キリストの教会は、”権威ある言葉 ”が語られ場所であるはずです。
私たちを愛し、覆い抱く ”父なる神 ”という存在が語られ、
父なる神と、私たちとの関係が語られるところなのです。
そうであればこそ、救いが語られ、平安があり安息があるのですから。

「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、
天におられるわたしの父のみこころを行う者がはいるのです。」

(新約聖書・マタイによる福音書・7章21節・新改訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on October 05, 2006.