心を満たしたいために
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教会には、実に多くの人がやってくる、何かを求めて・・・、
自分の心を満たしたいために・・・・。
家庭や職場や地域や学園で、何かを体験し・・、人間関係に疲れ・・・。
教会ならば、傷ついた心をいやしてくれるに違いないと思って・・・。
その顔には、人間の声を欲しているさまがありありと表れている・・。
人間関係に傷つき疲れ果てたにもかかわらず、
欲しているのは、人間の声そのものなのだ・・・。
しかし、期待は裏切られなければならないだろう。
教会の主であるイエス・キリストは、必ずや彼らに語られる。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、
自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
(新約聖書・マタイによる福音書・16章24節・新改訳聖書)
教会の主人はイエス・キリストその方であり、牧師でも人間でもない。
教会の主であるイエスは、教会に集まる人たちの心を取り扱われる、その言葉によって。
主であるイエスは、人間の、その心の底にある性質を取り扱われる、その言葉と行為によって。
手ばなしたくないと思っているもの、大切にして離さないでいるものを・・・、
そのものの真中めがけて・・・・主イエスは大胆に語りかつ取り扱われる・・。
私たちは、私たちを悩まし、私たちの心を痛めているそのものが、
私たちの心の底にあることを知らない・・・。
いや、そうだと知っていても、それを手ばなせないから悩んでいるのだ・・・。
人間の声を欲しても、それによって決して心をいやすことなどできないことを知ってはいても、
それを受け入れられないその心そのものを取り扱われるだ。
私のではなく、主であるイエス・キリストの価値観に関心を持ち、
耳を傾け、さらには心を開き受け入れるのかどうか・・。
人間ではなく、主であるイエスの存在を受け入れ、
私たちの、そのただ中に置くことができるのかどうか・・・。
イエスは言われた。
「天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。
すばらしい値うちの真珠を1つ見つけた者は、
行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」
(新約聖書・マタイによる福音書・13章45〜46節・新改訳聖書)
イエスは、私たちにかわって、私たちが捨て去るへきものを、その身に負い、
ご自身とともに十字架につけられたのです。
しかし現実は、実に多くの人が、捨て去ることも、手ばなすことができずもがき苦しんでいる。
だか、イエスの痛みと苦しみは、
その命をささげられたほどのものであったことを忘れてはならない。
「・・・・その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」
(新約聖書・へブル人への手紙・2章9節・新改訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on May 15, 2006.