教会にたいする期待という誤解



クリスチャンであろうが無かろうが、
日本の人たちが思い描く”教会”というところのイメージに、
何んらかの誤解があるのではないかと、よく思わされます。

心が満たされず、何がしかの不足を覚えて、
暮らしに疲れ果てた人たちが教会にやって来ます。
それが、夫婦の間にある亀裂であったり、距離であったり、
経済的な問題であったり、
子どもの教育のことや、将来への不安であったり、
職場の人間関係であったりします。

では、教会というものが、
現代社会の病理の中で疲れ果てた人たちの受け皿として機能しているのでしょうか。
そこにある、”教会にたいする期待”というものは、
そのような必要に応える所だという一方的な思い込みなのです。

教会とは、信仰とは、実際にそういうものなのでしょうか。

新約聖書のヘブル人への手紙に次のように書かれています。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。
信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、
従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」

(新約聖書・ヘブル人への手紙・11章1〜3節・新共同訳聖書)

「神」という概念で教会というものを捉えず、
現実の実生活という現場での視点でものごとを考え、とらえれば。
経済的に問題がなく、健康であり、安全であることが、
人間として必要なものであり、また求めていることであり、
それが手にはいれば幸せなのです。

それがキリストの教会でいう”救い”なのでしょうか、”福音”なのでしょうか。
そうであるならば、それは”ご利益信仰”と何ら変わりません。
目に見えるもの形あるものの世界に、
人生の土台や基礎を置いて、それを追い求めているに過ぎないのです。

キリストの教会が語る”聖書の神”というものは、
目に見える形ある世界を越えた世界があることを、
その世界は、人間がどのような状態であろうとも、
人間の状態の如何にかかわらず働いているのです。

この世界は創造主なる神によって造られ、
わたしたち人間は、ひとりの例外もなくその神によって造られたのです。
世界の初め、父なる神は私たちを”素晴らしいもの”として造られました。
しかし、人間はその神に背いてしまい、
それ以来、混乱と混沌の中を歩まなければならなくなったのです。
それが先に書きました、私たちの現実の姿なのです。

ですから、再びその神に、人格的な創造主なる神に身を向け、その意志に応えるならば、
私たちは、再び可能性の開かれた人生を歩むことができるのです。
それが神への信頼であり、すなわち信仰なのです。

私たちの人生というものを、私たちの願いや必要というもの、
つまり財産や経済や地位や名声や健康などで判断するのではなく、
父なる神から与えられた”信仰”というものを、人生のすべてのものの土台に据えることにより、
どのようなことがあろうとも、とのような荒波の中を歩もうとも、
私たちの人生というものは、
揺らぐことのないクリスチャン信仰という土台の上に支えられていることを信じることなのです。

私たちは、自分の力で”救い”を買い取ったり、自分の力で自分のものにすることはできません。
神に背を向け混乱と混沌の中を歩んでいた私たちに代わって、
神のひとり子、イエス・キリストがその命を差し出すことによって、
父なる神との和解と、私たちの救いの道を開かれたことを忘れないでください。

それがイエス・キリストの十字架の出来事なのです。
そのイエス・キリストを受け入れる信仰によって、
神のギフト・贈り物として”救い”が与えられるのです。
それに贈り物によって始めて、人生という正確な道すじが明らかになるのてす。

教会というところは、決して消極的なところではありません。
しかし実際、
消極的なところのように見られてしまいかねないクリスチャンの姿かあることも事実です、
普通の人間なのですから。

教会は積極的なところです。
ポジィティブシンキング・チャレンジ・モチベーション・・
これらの言葉であらわされ語られるところなのです。

人生が困難な状況の中にあっても、喜びの中にあっても、
その困難さに、そのうれしさに、気をうばわれ、目をうばわれ、時間をうばわれることなく、
キリスト・イエスに、目を、気を、身を、時を、機会を向けるなら、
必ず人生は祝福されたものになるのです。

「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。
見えるものに対する希望は希望ではありません。
現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。」

(新約聖書・ローマ人への手紙・8章24節・新共同訳聖書)

「目に見える望みは、望みではありません。」

しかし、しかし、しかしながら、実際の教会となれば、暗く沈んで重苦しい空気に満ちてはいます。
なぜでしょうか。
なぜキリストにある希望が説かれ解き明かされないのでしょうか。


北白川 スー

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Wrote up on November 23, 2006.