救われてから教会に来るのか、教会に来てから救われるのか



人生に迷い、満たされず、思いあまって、人間の言葉が欲しいがために、
人間の声を期待して教会にたどり着き・・・、
しかし教会では、自分を正しさを立っすることのできる言葉は得られず、
教会から立ち去る人もあれば、
自らの高慢とエゴに気付き、
イエスの前に悔い改めることによって救われた人と・・・。

混乱の中に人生を送っていた者が、人生の中でキリストの十字架の言葉に出会い、
出会ったことによって救われ、
キリストを讃えようと自らの意志で教会を捜し、教会へやって来た人・・・。

その両者の違いはどこにあるのでしょうか。
それは、イエス・キリストの十字架との出会いにあります。

「なぜなら、『主の御名を呼び求める者は、すべて救われる』とあるからである。」
(新約聖書・ローマ人への手紙・10章13節・口語訳聖書)

さらに「救い」について聖書は明確に語っています。

「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、
自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、
あなたは救われる。」

(新約聖書・ローマ人への手紙・10章9節・口語訳聖書)

どうであろうと、イエス・キリストの十字架の出来事を、死と葬りと三日目の復活という出来事を、
人は心で信じることによって神の前に正しい者とされ、
口で、言葉によって言いあらわすことによって、
告白とも宣言とも言えるものによって、救われるのです。
ただ聖書の文章を言う、ただ唱えるのではなく、
意味と内容とを理解し言い表せることを求めるのです。

もちろん教会は、イエス・キリストの十字架の出来事が語られるところです。
難しく言えば、「神の啓示」についての証しが語られるところであり、
私たちが、その啓示を信仰において認識するところなのです。

ですから私たち人間のできることは、
ただ、イエス・キリストの十字架の出来事という、神の啓示の証しにもとづいて、
啓示が与えられ、受け入れ、それを承認することだけなのです。

もちろん十字架の出来事は教会の中だけで語られることではありません。
教会の外でも、メディアを通しても語られ、人の口を通して伝えられ、
現代社会ではインターネットにおいても語り伝えられています。

その出来事を聞いた者が、その出来事を信じることによって救われるのです。
決して場を選びません。

聖書は次のように語っています。
「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」
(新約聖書・ローマ人への手紙・8章14節・新改訳聖書)

教会というところが、心に病を負った人の世話をしたり、
人々の多様な必要にこたえる受け皿として機能しているところだと思っている人たちが、
あまりにも日本の社会に多いのが現実です。

または、日々の人間関係に疲れ果ててしまった、
人間の言葉に飢えた人たちが集まる小さなコミュニティのように見られています。

そうではなく教会とは、「人間が神の言葉に聞く」というこのひと事によって、
神が人間に語られることを聞くということによって基礎づけられ、支えられているのです。
教会において、イエス・キリストの十字架の出来事が声高らかに力強く語られることによって、
次の聖書の言葉通りになることでしょう。

「イエスの評判はますます広ろまって行き、おびただしい群衆が、
教えを聞いたり、病気をなおしてもらっりするために、集まってきた。」

(新約聖書・ルカによる福音書・5章15節・口語訳聖書)

イエス・キリストは、メシアです、救いぬし・いやしぬしです。
それはイエスの、「死からの復活」という出来事があればこそ、
病からのいやしも起こり、人が救われもするのです。


北白川 スー

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Wrote up on June 19, 2006.