満たされたい
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おおくの場合、教会にやってくる人たちは、
正体の分からない、重く、満たされない思いを抱いてやって来ます。
人は人間の愛に満たされず疲れ果てて教会にやってきます。
しかし教会は、人間の愛ではなく、
すべての人間を包みおおいつくす神の愛を語ります。
見過ごされがちな、また広く知らされていない、
この根本的なギャップを知らしめ説きあかしているのが教会かもしれません。
仕事に勉強に恋愛に人間関係に、・・・思い描いたように事はうまく進まず、
疲れはて・・傷つき・・・
先が見えなくなり、道がなくなり、動きがとれなくなり行き詰まってしまって・・、
そして、一生懸命になって道を探し求める・・・。
つぎつぎに追いかけ来る日常に追われて・・・、
何が足りないのかさえ考える時間もなかった自分に、やっと気付いて・・・。
何かが足りないことに気付いて・・。
満たされない思い・・、どうしても充足感が欲しい・・・。
満ち足りたい・・・。
ここに見えるのは、ひとつの個人と、ほかの多くの人たちという関係にある、一人の人間の姿です。
なぜ、ものたりなさという思いが人の心を満たすのでしょうか。
言い換えれば、人間というものは、
自分しか見えていない存在なのだということを物語っているのではないでしょうか。
そのような人間を、外から眺めてみましょう。
聖書は、人間というものは、いかなる人も同格だと語っています。
神はそのように人を造られたからです。
つまり、私たちは、ひとしく神に愛されている存在なのです。
満たされたいという思いは、
愛してくださっている存在が見えていないことと同じではないでしょうか。
聖書を開いてみましょう。
「もし、キリストに結ばれていることによって、
それがあなたがたにとって励ましとなり、
また、神に愛されていることが慰めとなり、
あなたがたに、聖霊による交わりがあり、
人に対する思いやりの心があるならば、
どうか、互いに同じ思いを抱き、同じ愛を持ち、
心を合わせ、思いを一つにして、わたしを喜びで満たしてください。
対抗意識を持ったり、みえを張ったりせず、
へりくだって、互いに相手を、自分よりすぐれたものと思いなさい。
おのおの、自分のことだけでなく、他人のことにも目を向けなさい。
キリスト・イエズスが抱いたと同じ思いを抱きなさい。
キリストは神の身でありながら、
神としてのありかたに固執しようとはせず、
かえって自分をむなしくして、
しもべの身となり、人間と同じようになった。
その姿はまさしく人間であり、
死にいたるまで、十字架の死にいたるまで、
へりくだって従う者となった。
それゆえ、神はこの上なく彼を高め、
すべての名にまさる名を惜しみなくお与えになった。
こうして、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものはすべて、
イエズスの名においてひざをかがめ、
すべての舌は『イエズス・キリストは主である』と表明し、
父である神の栄光を輝かす。」
(新約聖書・フィリピ人への手紙・2章1〜11節・フランシスコ会訳聖書)
父なる神に愛されているという思いこそ、心を喜びで満たすものではないでしょうか。
心を満たす、父なる神に愛されているという喜びこそが、
ひとりひとりがひとしく神に愛されている存在だということが、
ひとしく神に愛されている人たちすべてにたいして、
思いやりの心や、広い心を持つことができる、そのもといなのです。
北白川 スー
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Wrote up on February 28, 2006.