負わなくてもよい苦労を背負って



教会には多くの人がやってくる、
それも、とても重い荷物を、肩に背中に負ってやってくる・・・。
明日への不安から、
夫のことであったり、
子供の教育のことであったり、
会社での人間関係のことであったり、
人には言えない重荷かもしれない、
人恋しさが、悲しみの重荷になっているのかも知れない、
不満で心が爆発しそうで、その思いを、だれかに吐き出したい、そして楽になりたい、
自分の立っているところが脅かされそうだ、自分を認めてほしい、
心の痛みと苦しみで夜も眠れない、
夫がなかなかキリストを受け入れてくれない、
家族の中で、自分ひとりがクリスチャンである負い目という重荷かもしれない、
それが手に入れば、きっと幸せになれるはずなのに・・・。
自分の人生は、なんと暗くて悲しいのだろうか、
いつもそのことで心の中はいっぱいなのだ・・・。

これからの人生、まだまだこの荷物を引きずって行かなければならないと思うと・・・。

イエスは言われた。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。
あなたがたを休ませてあげよう。
わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、
わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

(新約聖書・マタイによる福音書・11章28〜30節・口語訳聖書)

私たちは、それが自分にとって最も大事なもの、なくてはならないものと思っている。
しかし、その最も大切だと思っていることが、それが、負わなくてもよい重荷だとしたら・・・。

求め、望み、願って止まないそのものが、自分を苦しめている超本人であるとしたら。

そのことに気付いていますか・・・。
あなたは、望み求めてやまない願いが、
それがかなうことによって幸せが来ると思っていますね。
しかし、それが手にはいれば幸せになれるというその思いそのものが、
それが手にはいれば、
自分を苦しめている問題は解決すると思えば思うほどに、
ますます混乱の輪は大きくなっているとは思いませんか。
思えば思うほどに苦しみが増し加わっているとは思いませんか。
または、それに酔っているのかもしれません。
それとも、その思いを手放すのが怖いのかもしれません、
手ばなせば、何もなくなる不安に不安を感じているのかもしれません。

でも、考えてみてください、
苦しめているものが無くなれば、どれほど楽になるかを。
あなたは、負わなくてもよい苦労を背負い込んでいるのです。
主イエスに事をゆだねることをせず、
自らの行為と努力によってそれを成させようとしていませんか。

イエス・キリストは言われました。
あなたは、負う必要のない重荷を苦労を不安を心配を背負っているのだよと。
あなたは、自分の必要が満たされることが救いだと思っていませんか、
はたしてイエス・キリストは、そのように言われたのでしょうか。
この世の望みは、目に見える望みは、まことの望みではないことを知らなければならない。
主イエスは、私たちに身軽な人生を送ることを望んでおられるのです。


北白川 スー

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Wrote up on May 23, 2006.