傷つき、疲れ果てる前に



教会にやってくる人たちは、たたかいに破れ、あまりにも深手を負ってやってくる。
その傷は深く、一刻の猶予もゆるされない、まずは治療に専念しなければならないのだ。
そこはER・緊急救命室のごとく野戦病院のごとく、
痛さのあまり、苦しみのあまり、人の話しを落ち着いて冷静に聞くことなどできない・・。
そこでは喜び歌うことすら遠慮されてしまう。

だから肝心のイエス・キリストを、喜びの対象として讃えることすら後まわしにされるのだ・・。

ある人は、信仰を持ったものの、思っていたものとのへだたりを感じて、
自分の描いていた理想と現実とのギャップに苦しみ、
信仰に入ったあのときの情熱はいつしか薄れさり、
教会の奉仕をすればするほど疲れていく・・。
教会の中にさえつらい人間関係のあつれきを作ってしまう・・・。

ある人は、仕事や勉学や地域社会の人間関係にすっかり疲れはて、
話し相手もなくなり、
自分の気持ちの持って行く場がなくなったとき、とびらが開かれていたのが教会だった・・・。

宗教に熱心が信仰だと思っている人が、
人間の管理下にある超自然的な権威のもとに、かしずき仕えることで、
神とか宗教というようなある種の形にはめた対象に近づくことしかできないのなら・・。

いずれも、教会で見かけることのできる生身の人間の姿です。
日本のキリスト教会を取り巻く日常を、
比べることなどできない極端な例だと言われそうだが、あえてあげてみた。

そして、日本のある事情はこうだ。
信仰というものが、
自分の生活にとって重要な役割をはたしているとは思っていない人たちが
あまりにも多くを占めている現実を、どのように見るのか・・・。

しかし、聖書は次のように記述している。
神は言われた、わたしは、『わたしはある』という者であると。

「神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、
また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。
『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

(旧約聖書・出エジプト記・3章14節・新共同訳聖書)

だから、人間の信仰の対象というものは、
あくまで人間の暮らしの中にあるはずなのに・・・、
人間の生きる過程の中に、人間の存在と共にあるはずなのに・・・、
その存在すら、疑っているのが日本かもしれない。

神の意志を、その栄光を、いかなる人間も論評し異議をはさむ余地などない、
どんな場合においても認められる真理として、絶対的な神の自由な意志として理解されるなら・・・、
神を、生きて働く、犯しがたく光り輝く存在として仰ぐなら・・。

日本のキリスト教界は、教会の外の人にたいして、
どのように自分たちの姿をあらわしていかなければならないのだろうか。
もちろん、傷ついた人たちも、疲れた果てた人たちも、人恋しい人であっても、
信仰に信仰する人たちであっても受け入れ、
さらに、宗教など必要ないという人たちへも、
自分たちの姿をあらわしていかなければならないだろう。

では、なぜ、神の教会は、私たちの生活の場に打ち立てられなければならなかったのだろうか。

それこそ、求められるべき素朴で決定的な問いかけなのです。
それゆえ教会は。
神が人間のところに来られ、人間のものとなられた出来事によって、
すなわちイエス・キリストの十字架の出来事によって、
神の人間にたいする究極の決断と選択によって起こされた出来事によって、
教会は生まれたと言いあらわしていかなければならないのです。

だから人間は、神が人間に語られている言葉を聞き、
聞く事によってのみ支えられ基礎づけられるのだと。

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
(新約聖書・ローマ人への手紙・10章17節・新共同訳)

傷つき倒れる前に、疲れ果てる前に、神の言葉を聞いていたなら事情はかわっていたかもしれない。
教会が神の言葉を語ることを後まわしにしようものなら・・・。


北白川 スー

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Wrote up on March 10, 2006.