布教の進まない日本・その2



 日本においてキリスト教の信仰が広まらない理由は、

 教会において、常に、イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事の内容と意味とが、

 機会を得て解き明かされないからであると語ってきたわけです。

 それが決定的な理由ではありますが、

 それとは別に、見逃すことのできない、

 日本人特有の性質というものがあります。

 キリストの福音を解き明かすということは、

 人間の悪の問題を正面から取り組むことを意味しているわけです。

 福音は、人間を全人格的な問題として捉えるよう指示しているからです。

 キリスト教の教会は、人間の本性的な性質・罪深さを問題にするところだからです。

 人間を統一した全一な人格の持ち主として考えることが原則なのです。

 そうでなければ、

 まったくの方向転換を意味している ”悔い改め ”は、

 その意味を失います。

 部分的な悔い改めなど聖書・バイブルには言ってはいません。

 全人格において神の道へ心を向けるのが回心であって、

 部分的な改心など、意味を持たないからです。

 しかし、日本人の特有の性質から考えれば、

 そうとは言えないのです。

 日本での多くの場合、

 自分の人格に危機が迫ってきたとき、

 自分の生き方や考え方にたいして肯定的な言葉や態度によって安心を得ようとするものです。

 だから人は、自分の義を求めて教会にやってきます。

 自分の救済を求めて教会にやってくるのです。

 ”身から出た錆・サビ ”という言葉があります。

 武士の刀や、調理の包丁などの、刃物としての道具は、

 サビが出れば使い物になりません。

 人は、自分の人格を、刃物と同じように、

 サビが出て使い物にならないように、

 常に気をつけていなければなりません。

 しかし、たとえサビが出たとしても、

 もう一度、砥ぎ直せば切れ味は再び戻ってきます。

 サビの下には、依然として鋼は生きているからです。

 それと同じように、

 人間の魂も、サビが出ても、砥ぎ直せば、

 再び光り輝く魂が戻ってくると考えるのです。

 その刃物自身に、鋼自体に問題があるとは考えません。

 聖書・バイブルは、

 刃物自身を、鋼自体を問題にしているのです。

 人が生まれながらに背負っている性質について問題にしているのです。

 聖書は、人間の義でなく、

 神の義を問題にしているのです。

 なぜなら、


 「 それは、次のように書いてあるとおりです。

 義人はいない。

 ひとりもいない。

 悟りのある人はいない。

 神を求める人はいない。

 すべての人が迷い出て、

 みな、ともに無益な者となった。

 善を行なう人はいない。

 ひとりもいない。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章10〜12節・新改訳聖書)


 問題は、

 鋼は、

 再び火に投じて鍛え直さなければ性質を変えることはできないからです。

 つまり、精神的な肉体的な苦痛を伴わないかぎり、

 人間の魂は再生することはできないのです。

 日本人は特に、

 人間の罪の性質という問題と正面から取り組むことをしないのです。

 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事は、

 まさしく、キリスト・イエスが、

 私たちに代わって、

 その身に苦しみと痛みを受けてくださった出来事なのです。


北白川 スー

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Wrote up on September 30, 2012.