キリスト教というものを考えるとき


 キリスト教というものを考えるということは、

 それは当然にして、”福音・ゴスペル ”というものを考えるということなのですが、

 キリスト教と福音とは切っても切れない関係にあるのですが・・・、

 福音とキリスト教とは、一心同体だと言ってもいいのですが・・・、

 しかし、そうとも言えないのが、こと日本の事情なのかもしれません。


 教会は、慈善や福祉といった社会的な施設でも、音楽やカルチャーの建物でもありません。

 また、人間の救いの方法や、救いの建物や装置ではありません。

 教会は、ただ私たちの信仰においてだけ、

 ”その出来事 ”においてだけ、神ご自身を、私たちに示し知らしめられるところなのです。

 教会においてこそ、”神の恵み ”が、イエス・キリストの人格において礼拝されるところなのです。

 教会は、人の形をして人間のところに来られ、人間のものとなられた啓示において、

 神の人間にたいする究極の決断と、態度決定とによってのみ生まれてきたのです。

 教会は、思想や趣味などを同じにする人たちの集まるところでも、

 人間の確信や意志などによって人を教会に集めているのでもありません。

 ですから決して人間の宗教的な結社ではないのです。

 教会では、キリストの福音が語られ、

 それにたいする私たちの応答があるだけなのです。

 イエス・キリストが十字架にかかり死刑となり、

 葬られ、三日の後に死人のうちから復活したという出来事が語られ、

 その意味と内容が語り続けられているところなのです。


 イエス・キリストは宣教の初めに言われました。

 「悔い改めよ。天の国は近づいた。」

 (新約聖書・マタイによる福音書・4章17節・新共同訳聖書)


 今までの私たちの考え方ややり方が間違っていたことを、

 自分自身の思いや言葉や行動が間違っていたと、気づき、

 それを改め、直すことを・・・・求めているのです。


 「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。

 これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである。

 神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。」

 (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・1章17〜18節・口語訳聖書)


 この世界を造られた、私たち人間をも造られた創造主なる神の前に、

 父なる神の前に、ひざをかがめ、おそれ敬うこと・・・・・。

 すべての人は、神を知るために生まれて来たと言ってもいいのです。


北白川 スー

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Wrote up: 03 November 2008.