教会生活が世俗外的禁欲だとしたら
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世俗内的禁欲と世俗外的禁欲・・・・。
聞きなれない言葉かもしれません。
生活する上での堅く信じている信条として、
キリスト教やクリスチャンが、世俗的な不品行や不道徳に走らず、
仕事には勤勉で、富を求めたりはせず、
酒やタバコやギャンブルといったものから遠く、
清く貧しく・・・、お金とは縁の遠い生活に安んじる・・・。
そのような暮らしこそ間違いなく信頼すべきものであると。
一般の人と同じ社会に生活しながらも、
上記のような禁欲生活を送ることを世俗内的禁欲生活と言えます。
一般社会から離れて、外の人とは交流せず、
厳格な規則を守り共同生活を送っている修道院は、
世俗外的禁欲と言えます。
では、日本のクリスチャンの教会生活はどうでしょうか。
クリスチャンになって、日曜日には教会の礼拝に集うわけですが、
礼拝だけではなく、礼拝に続くさまざまな活動や奉仕に、
聖書の勉強会であったり、婦人会や青年会・・・などなど、
1日中熱心に神に仕えることによって祝福されると思って・・・。
1週間に1度行く教会生活・・・、
つまり1日だけの世俗外的禁欲生活の日なのです。
クリスチャンになるということは、
1日24時間クリスチャンであるはずです。
職場で仕事に励んでいるときも、
ビジネスで商談中であっても、
学校で勉強しているときであっても、
自分の家で掃除や食事の支度をしているときであっても、
さまざまな人間関係の中にあっても、
家族の中にあっても、
クリスチャンとしての人生を歩むことが、
クリスチャンとしての態度であり姿勢であるはずです。
クリスチャンの暮らしの原則は、
一般の人と同じ社会に生活しながらの信仰生活、
キリストに信頼して歩む人生なのです。
一般の日本人が想像しているクリスチャンの生活スタイルは、
欲を欲せず清く貧しく生きようとする・・・・でしょうか。
難しく言えば、非行動的な生活態度なのです。
あらゆる他のことからの欲望はすべておさえて、
職であれ、着ることであれ、食べることであれ、
住まいのことであれ、
それらの欲を捨てて生きる・・・・。
いいえ、そうではありません。
キリスト者としての生活態度は、
たいへん行動的な、行動力をともなった、
生活態度であり、行動様式なのです。
ですから、他の人から見たら、
とても目立つ存在かもしれません。
しかし残念ながら、
こと日本では、そうではありません。
この世的なの生き方と、キリスト者としての間に苦しみ、
手も足も出ない状態に、自らを置いて苦しみ、
ストレスのたまった心を、
週に1度の教会生活でいやそうと・・・・。
それが日本の教会生活なのかもしれません。
神の目から見た価値の高いこの世の中にある生活というものは、
世俗そのもののただ中にあって、
神によって召し出された、
ひっぱり出されたクリスチャンとして、
現世において神から与えられた使命がある・・・。
一般社会にあって、キリスト者として、
自分の義務として果たさなければならない、
意識して果たさなければならない使命があるのです。
世俗の中でキリスト者として生きることが神の召命なのです。
日常生活の中で、
日常生活とのかかわりの中でキリスト者として生きる・・・。
しかし残念ながら、こと日本においては、
週に1度の教会生活だけが、
クリスチャンとして生きることの証しになっているのです。
それこそが1パーセントの、
少数派に甘んじている理由なのかもしれません。
クリスチャンとしての姿勢・態度は、
決して世俗外的生活ではなく、
世俗内的禁欲生活なのです。
「 競技をする人は皆、すべてに節制します。
彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、
わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。」
(新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・9章25節・新共同訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on 31 May 2011.