行ないと信仰



クリスチャンの信仰生活や、
また教会生活において、
よく話題に上り、何かと問題となるテーマです。
また、マリアとマルタとの対比のように。

「・・・・マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、・・・・・」

 (新約聖書・ルカによる福音書・10章39〜40節・新共同訳聖書)

行ないとは、視野の狭い、短絡的な行動と言えるでしょう。
信仰とは、広い視野を持った総合的な判断を、
また、冷静な客観的な姿勢と言えます。
何事も点で見るのではなく面で見ることを言っています。

聖書の、ヤコブの手紙では、
”行ないのない信仰はむなしい ”とも語っています。
すなわち、何ごとも ”信仰を働かせよ”と言っているのです。

信仰が行ないと共に働き、
信仰が行ないによって完成されるのです。

「アブラハムの信仰がその行いと共に働き、
信仰が行いによって完成されたことが、
これで分かるでしょう。」

 (新約聖書・ヤコブの手紙・2章22節・新共同訳聖書)

ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事・・。
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事・・・。
イエス・キリストは十字架の死にまで従われたのです。
十字架で死ななければ、
私たちの救いは完成されないのです。

”行ないと信仰 ”を言いかえれば、
”律法と福音 ”ということになります。

行ないによってでは、律法によってでは、
救いには至らないのです。

福音は、律法とは別に、律法の外に明らかとなったのです。

クリスチャンになれば、何かと行動に走りがちですが、
立ち止まって、よく観察し・・・。
何が神が求められているのか、
神は何を望んでおられるのか、
よく考えなければなりません。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。・・・」・・・と聖書が語るように。
 (旧約聖書・詩篇・46篇10節・口語訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on March 31, 2013.