罪について・・昨日今日犯した過ちではなく。


 私たち人間はさまざまに過ちを犯します。

 またそのことによって悩みもし苦しめられもします。

 では、キリスト教では、その過ち・罪についてどのように考えるのでしょぅか。

 イエス・キリストが、私たちに代わって罪の代価を、ご自身の命を捨てることによって支払ってくださったという出来事は、

 イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)の出来事における罪とは・・・・、

 私たちが当然受けるべきむくいを・・・、

 つまり、十字架刑という、人間にとってもっもと重い刑罰としての十字架刑を、

 私たちに代わって制裁をうけてくださったという・・。

 その罪とは・・・。

 私たちが昨日今日犯した過ちのことではなく、

 もともと本性的に持っている罪深さ、

 生まれながらに負っている罪深さのことなのです。

 それを ”原罪 ”( げんざい )と言います。

 私たち人間は、この世界を造られた神の怒りを受けているのです。

 取って食べてはいけないと命じられていた禁断の木の実を食べたというエデンの園の出来事に始まる・・・、

 人間の始祖であるアダムが神に背いたことによって、

 アダムに続くすべての人間たちが負ってしまった罪深さ・・・。

 その生まれながらに負っている罪深さが、

 私たちの思いとなって、また言葉となって、さらには行為行動となって、

 自分自身にたいして、人にたいして、創造主なる神にたいして罪を犯しているのです。

 その原罪こそ問題とされているのです。

 人間が生まれながらに追っている罪こそ問題にされているのです。

 私たち人間は神の作品です。

 その作品が作者に背いたため、

 つまり作品は作者に栄光を帰すものだからです。

 その作品が作者に背いた・・・・・。

 そもそもそれが、私たちのすべての行動に影響を与えているのです。

 作者に背いてしまった作品として、

 当然のこととして作者による、神による裁き(さばき)を受けなければなりません。

 創造主としての神と、被造物である人間との、

 それも堕落してしまっている人間との関係・・・、

 その関係を回復することこそ、

 イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)の出来事なのです。

 私たちは神の怒りを受け、また裁かれるのです。

 しかし、その裁きから救ってくださるのも神ご自身なのです。

 その怒りと裁きを私たちに代わってうけてくださったのが、

 神のひとり子イエス・キリストなのです。

 私たち人間は神によって神から救われるのです。


 「 キリストは人としての性質をもって現われ、

 自分を卑しくし、死にまで従い、

 実に十字架の死にまでも従われたのです。」

 (新約聖書・ピリピの信徒への手紙・2章8節・新改訳聖書)


 私たちは、自分の犯した過ちに、その罪の重さに苦しむものですが、

 イエス・キリストがすでにその裁きを受けてくださっていたと知れば・・・・・。


北白川 スー

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Wrote up: 07 January 2010.