何からの救いなのか・・


 教会で日曜日ごと講壇から語られる説教やメッセージ・・・・、

 当然のように、”ゆるされた”とか、”救われた”とか、”いやされた”と言う・言葉が語られているわけです。

 十字架、福音、罪、赦し、救い、癒しというキーワードが語られない教会などはないと思いますが・・・。

 では、”何からのゆるし”なのでしょうか・・・。

 ”何からの救い”なのでしょうか・・・・。

 いずれもキリスト教信仰を成り立たせているもっとも大切な事柄なのですが・・・・。

 そのはずなのですが・・・・。

 色々と耳にする教会のありさまを聞けば・・・・、

 どうも日本の教会では、明確に語られているとは言い難い疑いがあります。

 日本のクリスチャンは、罪や赦しや救いについての理解や確信をしっかり持っているとは言い難い疑いが残るからなのです。


 この世界を造られた創造主なる神が、

 ひとり子であるイエス・キリストを、私たちの世界につかわし・・・、

 その生と死と復活とによって、備えてくださった、

 私たちへの”救い”という事柄をです・・・。

 私たちのイエス・キリストへの信仰を通して、

 イエス・キリストの十字架の出来事において、

 イエスの死と葬りと復活という出来事において、

 どのようにして、私たちの罪が赦され、

 どのように、罪から解放されたのか・・・。

 そして、この世界を造られた父なる神の前に、

 正しい者として立つことが、できるのかどうかという事柄をです。


 つまり、永遠の命というものが、

 救われているすべての人々のために、

 輝いて待ち受けているという・・・、

 救われた者にとって、おどろくべき喜びが待っているという・・・。


 私たちの罪のために十字架の上で死んでくださった、

 神のひとり子イエス・キリストへの信仰を通して、

 ”神が備えてくださった救い”というものをです・・・・・。


 日本のキリスト教の教会で、くりかえしくりかえし語られるはずなのに、

 ひょっとすれば、あいまいにされてきたのかもしれない事柄についてなのです。


 「福音は、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力なのです。」

 (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙1章16節・新改訳)

 「あなたがたの持つ信仰が、

 人間の知恵にささえられず、

 神の力にささえられるためでした。」

 (新約聖書・コリントり信徒へのパウロの第1の手紙2章5節・新改訳)


 何から救われたのか、その”何 ”そのものの認識の違いによって、

 信仰の有り様まで変わってくるのかもしれません。

 何から救われたのか・・・・。


北白川 スー

関連記事・「キリストへのプロローグ」

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Wrote up: 29 March 2008.