救いからほど遠い、この日本


 さまざまに混乱と暗いニュースに満ちあふれているこの日本、

 滅びに向かって突き進んでいる魂があまりにも多い・・・・と、

 大げさに言ってもいいほどの状態なのです。

 罪深さの中に、逃げることも救われることもできないほど、

 全身どっぷりと浸かっている、

 ” 救い ” から遠い日本なのです。

 多くの日本人たちは、キリストの福音を、

 いまだに聞いてはいません。

 いまだにキリストの福音は届いてはいません。

 そう言い切ってもいい状態なのです。

 滅びに向かってつき進んでいるとは知らず、

 自分の生活や、自分の興味のあるところに、

 大事なことを忘れて熱中しているまわりの多くの日本人たちの魂を救うという、

 大きな責任を果たすことを忘れてしまったのではないかと、

 日本の教会の存在そのものにも疑問を抱くことさえあります。

 聖書・バイブルは、この世界は滅びへと終末に向かってつき進んでいると示します。

 決して未来は希望に満ちた明るいものではありません。


 「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、

 救いを受ける私たちには、神の力です。」

 (新約聖書・コリント人への第1の手紙・1章18節・新改訳聖書)


 なぜイエス・キリストは十字架にかかり罪人として処刑されたのでしょうか。

 すべての人間の罪を、その身に負い、

 十字架の上で死なれることにより、

 私たちの罪を贖って(あがなって)くださった、

 すべての人の罪の代価を支払ってくださった、

 神のひとり子イエス・キリスト。

 この出来事こそ、この世界を造られた神と、

 その神にたいして罪を負っている私たち人間との和解の出来事なのです。


 私たちは、さまざまに、そうあらねばならないと考えもします。

 自分の都合で、自分の健康や経済や暮らしの上での利益を信仰によって得ようとしたりします。

 人それぞれに自分の感傷・センチメンタルのために信仰を見たりします。

 心に病を負った人たちや、社会の病理に傷ついてしまった人たちの受け皿としてのネガティブな役目が教会だと・・・・。

 社会に居場所を失ってしまった人たちの居場所であり受け皿としての役目についても教会が担うものだと・・・・。

 それらが救いなのでしょうか。

 それらが、” 神の怒りと裁き ” から救う、

 具体的な方法であり手立てなのでしょうか。

 それらが教会の大切な働きであったとしてもです。


 「 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、

 なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。

 もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、

 和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。」

 (新約聖書・ローマ人への手紙・5章9〜10節・口語訳聖書)


 この混乱と偽りに満ちた現代・・・・、

 なおさらのこと、

 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事について、

 神の怒りと裁きについて、

 説き明かされなければならない時代ではないでしょうか。


北白川 スー

関連記事・「キリストへのプロローグ」

表紙にもどります。

エッセイの部屋・バックナンバーへもどります。


http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
Wrote up: 29 September 2009.