イエス・キリストは誰なのか


 バイブル・聖書を読み始めて、ずいぶん長い年月が流れました。

 洗礼を受けてクリスチャンになってからも14年たちます。

 インターネットでミニストリーを始めて8年です。

 ネットで多くのネットユーザー人たちから便りをいただきました。

 クリスチャンもいれば未信者も、

 求道中の人たちからも便りをいただきます。

 便りを拝見していて、いつも疑問に思うことがあります。

 はたして、教会の礼拝における説教において、

 イエス・キリストは誰なのか、

 また、イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事が、

 イエス・キリストの死と、葬りと、復活という出来事が、

 なぜ、説き明かされないのか、

 なぜ、解き明かされないのか、という疑問なのです。

 解き明かされないのは、

 それが周知の、

 広く社会に知れわたっている事実だからなのでしょうか。

 キリスト教の信仰において、

 イエス・キリストの十字架の出来事こそが、

 その基であり、信仰者を支えるものであるはずなのですが。

 神との出会いであっても、

 イエス・キリストの十字架の出来事によらない神との出会いは、

 その出会いを疑ってみることもできます。

 それがまことの神なのかどうかを・・・・。

 キリスト教の教会は、神の啓示の中に、

 すなわちイエス・キリストの十字架の出来事の中に、

 その基礎を持っているのです。

 そして、神の啓示を聞き、

 また見た人たちの証しによって、

 教会は建って、また立っているのです。

 クリスチャンの信仰とは、

 ただ神の啓示の証しに基づいて、

 イエス・キリストの十字架の出来事に基づいて、

 その証しにおいて、

 神の啓示を与えられ、

 受け入れ、

 ただ、承認することだけなのです。


 「 わたしは福音を恥としない。

 それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、

 すべて信じる者に、救を得させる神の力である。」

 (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・1章16節・口語訳聖書)


 神のひとり子であるところのイエス・キリストが、

 人としてこの世界に生まれ来たということは、

 救い主・メシア、イエス・キリストが生まれたということは、

 この世界が、この世界を創造された、

 私たち人間をも創造された、父なる神の目から見て、

 堕落してしまっていることをあらわしているのです。

 私たちが逃げることも救われることもできない状態でなかったなら、

 救い主・メシアがこの世界に生まれ来る必要などないのですから。

 自分の生き方が正しいから、

 教会から、

 自分の生き方にたいして肯定的な言葉や態度などが得られると思って教会の礼拝に集まっているのですか・・・・。

 自分の生き方にとって、

 自分が納得する言葉を得ようとして教会にやってくるのですか。


 「 そのときから、イエスは、

 『 悔い改めよ。天の国は近づいた 』

 と言って、宣べ伝え始められた。」

 (新約聖書・マタイによる福音書・4章17節・新共同訳聖書)


 では、なぜイエス・キリストは、

 私たちにたいして、「 悔い改めよ 」と言わなければならないのですか。

 いったい、イエス・キリストは誰だというのでしょうか。

 イエス・キリストは、

 すべての人のために十字架にかけられ、

 罪人として死なれたのです。

 ひとりの人がすべての人のために死んだのです。

 私たちに代わって神の怒りを受けられたのです。


北白川 スー

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Wrote up on 22 August 2011.