主イエスが再び来られるとき
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日本の教会やクリスチャンの信仰で、
弱くて薄くて、
あまり取り上げられることがないテーマ・・・。
それは、主イエスが再び来られることを待ち望む信仰です。
再臨とも来臨とも、主の日とも言われる日のことです。
それは、信仰者が贖われて(あがなわれて)天に勝利の凱旋をする日でもあります・・・。
「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」
(新約聖書・ルカによる福音書・21章27節・新共同訳聖書)
日本のクリスチャンの、よく見かける信仰の特徴は、
聖書・バイブルが言うように、
救われた者が、
約束として、
体が贖われるという望みによって救われ、
永遠の命を手にすることができる希望において、
罪深く混沌とした世界の中でも生きて行くことができる・・・というのではなく、
信仰を用いる先が、
その人が生きている世界の利害関係にあるということです。
目の前にあり、その渦中にあり、迫っている危機から、
今ある状態から抜け出すことが最大の目的で信仰を考え、
教会に助けを求めるのです。
日本のキリスト教ほど、
キリストの再臨・来臨を待ち望む姿勢が、
とても弱くて薄い信仰は、他に例を見ないかもしれません。
イエスは言われました。
「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。
もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。
あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、
また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。
わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・14章2〜3節・新改訳聖書)
主イエスが再び来られることを待ち望む信仰が、
すべての希望の根源であり、
また、力を与えるのです。
弱さを覚え、訴えている人は、
はたして、主イエスと相まみえること、
主イエスと顔を合わせることへの希望が、
力を与えるものであることを知っているでしようか。
「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、
キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。
彼らの行き着くところは滅びです。
彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、
この世のことしか考えていません。
しかし、わたしたちの本国は天にあります。
そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、
わたしたちは待っています。」
(新約聖書・ピリピの信徒への手紙・3章18〜20節・新共同訳聖書)
この世の、目先のことにしか頭になく、
苦しみ悩み続けている人にたいして、
イエス・キリストと共に歩む、
明日への希望に生きる素晴らしさを、
日本のクリスチャンは証ししなければならないのです。
なぜなら主の日には、
この地上で作りだされたものは、
すべて暴かれ、焼き尽くされ、無力となるからです。
天国に比べれば、地上のものは何の価値も見出されないからです。
「しかし、主の日は盗人のように襲って来る。
その日には、天は大音響をたてて消え去り、
天体は焼けてくずれ、
地とその上に造り出されたものも、
みな焼きつくされるであろう。」
(新約聖書・ペテロの第二の手紙・3章10節・口語訳聖書)
なぜ日本のクリスチャンは、
呪われた地上で、罪の中をさ迷い、
この世の幸せ、この世の豊かさに気を奪われ、縛られ、
地上のことに思い悩み、苦しみ、
暗く沈んでいるのですか。
それは、地上に望みを置いているからではありませんか。
地上のものに心を引かれているからではありませんか。
私たちのふるさとはこの地上ではなく天国なのですから。
私たちは、主イエスが再び来られること待ち望む信仰と希望によって、
前向きに生きることができるのです、永遠に・・・。
北白川 スー
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
Wrote up on November 16, 2013.