青年は幻を見、老人は夢を見る



「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、
彼らが座っていた家中に響いた。」

(新約聖書・使徒言行録・2章1〜2節・新共同訳聖書)

ペンテコステの日がきて、みながひとつになって集まって祈っていると、
突然はげしい風が吹いてくるような音が天から聞こえて、
彼らのいた家全体にひびきわたった。

この出来事は、聖書の有名な、
神の霊が降りてきたというペンテコステの記述です。
その場で、そこにいたキリストの弟子でリーダーのペテロが、
旧約聖書のヨエル書から、
ヨエルの神の信託・預言を引用して語っています。

・・青年は幻を見、老人は夢を見る・・・と。

私が信仰を持ち始めたころ、
どうもこの記述は逆ではないかと疑問に思っていました。
私たちの日本では、
青年が夢を、
老人が幻を見るのが普通ではないかと。
実現しそうにない、かなわぬ夢・ドリームを夢見るのが若者たちで、ドリーム・カム・トルー・・・と。
一方、年を重ねたベテランたちが、
日本の明日を心配して、
これまた実現しそうにない、
裏付けのないビジョンをぶち上げる・・・。
最近の国会中継がそうです。

今は、テレビでは深刻が、若者は目先の心配なのです・・。

しかし、聖書・バイブルは、この逆です。
青年はビジョンを語り、そのビジョンに向けて具体的な行動を起こすものだと。
そして、老人たちは、青年たちが描いたビジョンが実現した未来の模様を夢見る・・・・と。

さて、日本のクリスチャン人口は、
400年の宣教の歴史がありながらも、
依然として人口比にして1パーセントと低迷しています。

日本のキリスト教の教会は、特にプロテスタントでは、
100名も入れば建物から人があふれ出しそうな、
こじんまりとした小規模な教会ばかりです。
毎日曜日の礼拝には、
平均して30名ほどの信者が集まっている程度です。

1000名とか2000名を収容する規模の教会を見ることはありません。
ちいさな教会に、今のままでなく、
勢力の拡大と言ったようなビジョンが教会にあるのかどうかも疑問です。
日本をキリスト教化したいのなら、
それなりのビジョンがあって、
そのビジョンに向けた備えと行動があるはずなのですが。

日本は幸いにも信教の自由が保障されています。
しかし、
正直なところ、アットホームな小さな教会は入りづらいものです。

経済や教育や医療や地域社会などに影響力を持つようなキリスト教が、
この日本に建てられることをビジョンしたいものです。

ビジョンを現実のものにするものこそ、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのです。
つまりキリストの福音なのです。

このキリストの十字架の死による贖罪の解き明かしがなされるところには、
明日へのビジョンも明確になってきます。


北白川 スー

関連記事・「イエス・キリストの十字架」

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Wrote up on April 15, 2013.