神と対立することを知らない人間たち
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 自分たちの不足を神に祈り求めれば、
 神は必ずや満たしてくださると信じるなら・・・、
 それは、ご利益信仰だと言われてもしかたがないだろう。
 人間の不足を神に祈り求めることによって、
 神の義が明らかになるのなら、
 人間の不足をおぎなってくださるのが神なら・・・。
 私たち人間は、神の前で正しいから、
 神は私たちの不足をおぎなってくださるのなら、
 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事は、
 その意味を失ってしまう。
 私たち人間は、神と対立する存在であることを、
 神に逆らい背き、
 楽園を追放された存在であることを知らないのなら・・・・。
 神の前で正しい存在であるかのように、
 自分たちの不足を神に求めることもできるだろう。
 しかし、
 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事は、
 まぎれもなく、神は私たち人間にたいして怒りを下されたという出来事なのです。
 神のひとり子イエスは、
 私たちに代わって神の怒りをその身に受けられたのですから。
 そのイエス・キリストを信じる信仰によって、
 イエス・キリストを自分の主として、
 イエス・キリストへ信頼をよせることによってのみ、
 神の前で正しい存在として認めてくださるのではないのか。
 それが信仰による義なのです。
 神は人間の不足を満たしてくださる存在なのだと、
 人間は、まるで義なる存在であるかのように、
 神の前で正しい存在であるかのように、
 神の優越性を認めれば、
 自分たち人間に比べて、はるかにまさっている存在だと認めれば、 
 人間の責任はなくなるとでも言いたいのだろうか。
 安易に神に不足を求めることの裏に隠された本当の気持ちは、
 どうして神は私たちに怒りを下されるのか・・・・と、
 怒りを下される神を考えたことのない人間の論理に従っているということになるのではないのか。
 神と対立することを知らない人間・・・・。
 それが人間の真実の姿なのです。
 なぜ、どうして神は世界を裁かれるのか・・・、
 その理由を知れば、
 私たち人間は、
 安易に神に不足を満たすよう祈り求めることなどできないはずです。
 どうであれ、恵まれていようが、
 不足の中にあろうが、
 人間の力や知恵では知ることができない神の意思に、
 従うことしか許されていないし残されてはいない。
 なにがどうであれ、
 どうなろうが、
 神に栄光を帰すことのほか残されてはいないのが、
 被造物としての人間の存在の意味なのです。
 これこそが神にたいする態度なのです。
 私たち人間は神と同じではないのだから。
 「・・・・・・あなたがたの天の父は、
 これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
 そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
 だから、明日のことまで思い悩むな。
 明日のことは明日自らが思い悩む。
 その日の苦労は、その日だけで十分である。」
 (新約聖書・マタイによる福音書・6章32〜34節・新共同訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on 21 July 2011.