キリスト教とご利益信仰


 こと日本の信仰は、どのような信仰であれ、

 単なる心のなぐさめだけではなく、

 ご利益信仰と言っても言い過ぎではないかもしれない。

 日本の人たちが求める信仰は・・・、

 新興宗教であれ、神社であれ、仏教であれ、キリスト教であれ、

 その宗教に関心を持ち惹かれている人たちは・・である。

 人は考える、人間というものはもともと最善のもの・・だから、

 病気や金銭の苦しみから、人間関係の不和など・・・から、

 現在の悩みや苦しみや悲しみから救われるのは当然こと。

 人間というものは、本性からして、

 素質からして、倫理的からして、

 もともと善なる存在なのだから、

 いまの迷いや苦しみは、

 すこし道を踏み外しているだけのこと、

 もともと善なる存在なのだから、

 善なる道徳的行動を実行さえすれば、

 元の状態に戻る力や知恵を持ち合わせていると・・・。

 それに必要なものが、

 神や仏や霊的なものの、わずかな、少しの助けだけなのだと・・・。

 神仏に祈り求めるということは、

 一度しかない人生、自分にとって意味ある人生が送れれば、

 なにごとも自分の利益になることが先で、

 神や仏のことは二の次なのです。

 聖書・バイブルは語っています。


 「 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。

 まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。

 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。

 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。

 あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。

 そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

 だから、明日のことまで思い悩むな。

 明日のことは明日自らが思い悩む。

 その日の苦労は、その日だけで十分である。」

 (新約聖書・マタイによる福音書・6章30〜34節・新共同訳聖書)


 聖書・バイブルが問題にしているのは、

 神ご自身が問題にされているのは、

 私たちの何にを見られているのかといえば、

 信仰を持つことになった直接的な理由や目的なのです。

 この世界を造られた神と、

 被造物としての人間との関係においての、

 その人の動機なのです。

 自分の望みを手に入れるために神を使うとしたら・・・・。

 それはご利益信仰そのものなのです。

 キリスト教の信仰とは、

 自分の人生を喜びの中で生きていくことができるようにする、

 積極的な生活態度であり、

 行動様式をを言っているのです。

 今までの自分の生き方を改め、

 イエス・キリストを自分の主として、

 イエス・キリストに聞き従う信仰そのものなのです。

 それらを具体的に解き明かしているのが、

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)なのです。


北白川 スー

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Wrote up on 09 June 2011.