すべての人が持っている信じる心・・信心


 すべての人が持っている、神や仏や霊的なものを信じて疑わない心・・・。

 どのような人であっても、

 少しでも信心の気持ちを持っていない人はいないことでしょう。

 聖書・バイブルが語るのは、

 私たちすべての人間が、

 創造主なる神によって造られたこと。

 造られた目的は、

 自らの創造主を知ること。

 父なる存在の尊さ気高さを、

 非常に高い価値を持っていて、かんたんに近づけたり、

 容易に求めることができる存在ではないことを知ることにあります。

 そして、その神によって造られたがゆえに、

 ここが一番大事なところなのですが、

 神の作品としての、

 死のない作品として造られたのですが、

 ある出来事から、人間の生に死が入ってきたのです。

 人間はいつかは死をむかえることになったわけですが、

 命というものは、神から来て神に帰る・・・。

 ですから、永遠の命を考えるとき、

 それは、神のうちにしか見出すことができないわけです。

 ですから、神を求め、神に渇く(かわく)ことによって、

 永遠の命という希望を神に見出すことができるのです。

 この世界を造られた神への信仰は、

 死への恐れを、死への希望へと移り変えることにあります。

 私たちは死にたくはありません。

 老いたくはありません。

 不老不死にさえあこがれます。

 このような話にたいして、何をバカなことを言っていると言われます。

 言い換えれば、私たち人間は、

 どこから来て、どこへ行こうとしているのかということです。

 人間に死が入ってきた理由もありますし、

 その死の恐れから、死ではなく、永遠の命へと移される希望もあるわけです。

 その希望によって救われていることになります。

 すべての人が持っている、神や仏や霊的なものを信じて疑わない心・・・。

 というものに疑いを挟む余地はありません。

 人は、たえず霊的な何ものかに影響され、

 また依存し、その力によって、

 立ちもし倒れもするのです。

 不安を感じたり、安心を得たりします。

 その霊的な何ものか・・・について、

 私たち人間の理解力には限界があります。

 正確に理解することも、知ることもできないのです。

 しかし、人間の目には見えない、

 神性・・神の本性とというもの、

 神の永遠の力は、

 私たち人間が見ることのできない神の姿というものは、

 キリストの福音・・・、

 ・・ひとりの人がすべての人のために死んだ・・という出来事、

 神のひとり子イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という、

 神の業(かみのわざ)においてだけ、

 私たち人間は見ることができ知ることができるのです。

 キリスト教の教会は、このイエス・キリストの十字架の出来事の内容と意味とを、

 くりかえしくりかえし解き明かすところとして、

 この世界の中に存在しているのです。


 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、

 見えない事実を確認することです。」

 (新約聖書・ヘブル人への手紙・11章1節・新共同訳聖書)


 信んじる心というものは、

 目に見えないものを確信させるものなのです。


 「わたしたちは見えるものではなく、

 見えないものに目を注ぎます。

 見えるものは過ぎ去りますが、

 見えないものは永遠に存続するからです。」

 (新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・4章18節・新共同訳聖書)


 一般に言われる、神や仏や霊的なものを信じて疑わない心・・・は、

 それによって人間関係や共同体の秩序の維持や団結を作り上げようとするのです。

 そこには必ず対立や混乱がおきてきます。

 そのような、今を生きるための信心と比べて、

 キリスト教の信仰とは、

 決して現世の利益を求める信仰ではありません。

 あくまで、見えないものを渇望することによって救われようとするのです。

 キリスト教の信仰とは、

 永遠の命にたいする確信と熱望にもとづいているのです。

 ”今は経験してはいませんが、

 いつかは経験することになると信じているのです。”

 それがキリスト教の信仰なのです。


北白川 スー

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Wrote up on 25 November 2010.