クリスチャンの強迫観念



 「心の平安はゴールではなくスタート」という小論において、

 信仰を持っても、世俗での営みは続くわけですから、

 日常生活のすべての領域において、

 キリスト者として責任を取るということが求められることになる・・・と書きましたが。

 信仰を持ってクリスチャンになったら、

 どういうわけか、

 さまざまに社会奉仕や教会奉仕に走り出します。

 しかし、思う通りに事は進まず、

 悩み、苦しみ、痛みさえ覚えています。

 どう見ても、

 そうしなければならないという強迫観念に自らが縛られているとしか思えないのです。

 信仰は、決して、世俗から離れた修道院的な暮らしを持ちこむものではないのですが、

 何が人を消耗させるような感情的な重荷を負わせるのでしょうか。

 信仰を持つことによって、

 つまり、新しく生まれ変わったことにより、

 信仰を持つ前の感情とか人格の傾向から解放されたはずなのです。

 しかし、信仰を持っても、

 過去の不安や、

 信仰を持つ前の感情を引きずっているとしか思えないのです。

 なぜ、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事が起こったのでしょうか。

 創造主なる神は、

 神のひとり子イエス・キリストの生と死と復活において、

 何を私たちに備えられお与えになったのでしょうか。


 「 キリストは、自由を得させるために、

 私たちを解放してくださいました。

 ですから、あなたがたは、しっかり立って、

 またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」

 (新約聖書・ガラテアの信徒への手紙・5章1節・新改訳聖書)


 キリストへの信仰を持った者は、

 決して、痛みをともなう感情的な重荷を負う必要など、

 キリストは求めてはおられません。

 そうではなく、あらゆることからの自由を与えになったはずです。

 何のためにキリストは、ムチ打たれ傷つき、血を流し、

 辱められ、ののしられ、十字架にはりつけられ死なれたのでしょうか。


 「 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、

 神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・8章21節・新改訳聖書)


 信仰を得たということは、

 ゴールではなく、あくまで出発点に立ったということです。


 「 だれでもキリストのうちにあるなら、

 その人は新しく造られた者です。

 古いものは過ぎ去って、

 見よ、すべてが新しくなりました。」

 (新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章17節・新改訳聖書)


 信仰イコール社会奉仕や教会奉仕だけなのでしょうか。

 何かの線を引いて、

 そうしなければならないというようなものなのでしょうか。

 キリストへの信仰とは、

 言いかえれば、新しい可能性を、

 枠にとらわれない自由な、

 より大きな絵を描ける、

 創造的な可能性を手にしたということではないのでしょうか。

 イエス・キリストは、私たちに自由を得させるために、

 十字架に死なれたのではありませんか。


 「 あなたたちは真理を知り、

 真理はあなたたちを自由にする。」

 「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」

 「 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、

 あなたたちは本当に自由になる。」

 (新約聖書・ヨハネによる福音書・8章32・34・36節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on 01 July, 2012.