恥だから認められない



日本人の社会生活においては、恥することが、
もっとも深刻な問題となります。
日本では ”恥 ”が、
人が、自分をどのように見ているかを、判断の基準にして、
自分の行動を決めているのなら・・・、
恥は力を持って、
人の自由を強く制約していると言っていい。

共同社会の共通の認識に従えない場合、
また外れていることを認めれば、
それが恥として認識され、
その人を縛り、
共同社会の中の居場所さえ失ってしまうのです。

恥は世間体にたいして成り立つものです。
クリスチャンであっても世間体にたいして恥を意識します。
それが原動力とさえなります。

教会生活におけるさまざまな事柄ついて世間体を気にするなら、
社会にたいしてリーダーシップなど発揮できる訳がないのです。
世間体に基ずくものは、福音の宣教に反するものだからです。

日本の様々な生活習慣は、律法となって人を縛っています。
またそれが、共同社会の秩序を守り、
維持していく上で重要な要素として認識されています。

聖書が、御霊によって歩めと言っているにもかかわらず、
教会生活ですら、型に従って組織された生活が求められています。
信仰は、決して肉の欲を満たすものではないはずなのですが。

聖書・バイブルは、律法とは別に、
律法とは関係なく、
律法の外に福音が明らかにされたと語っています。

「さて、わたしたちが知っているように、
すべて律法の言うところは、
律法の下にいる人々に向けられています。
それは、すべての人の口がふさがれて、
全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。
なぜなら、律法を実行することによっては、
だれ一人神の前で義とされないからです。
律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
ところが今や、律法とは関係なく、
しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
すなわち、イエス・キリストを信じることにより、
信じる者すべてに与えられる神の義です。
そこには何の差別もありません。
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、
神の恵みにより無償で義とされるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章19〜24節・新共同訳聖書)

日本の恥の文化を根本的にひっくりかえさなくては、
神の怒りの裁きから日本を救うことはできません。

恥は罪の問題を正面から取り組むことを拒ませるものだからです。

日本人の徳の根本としての恥が、
暮らしの中に、その位置を占めている間は、
日本には救いはやっては来ません。

そのためにも、キリストの福音を、
ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという出来事が、
くりかえしくりかえし説かれ解き明かされなければならないのです。


北白川 スー

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Wrote up on January 13, 2014.