礼拝は、魂に触れ心を動かすものでなければならない



どうだろう、あなたの所属する教会の礼拝は、
魂に触れ、心を動かすものだろうか。

決して、堅苦しい宗教的な儀式ではないのだから。
決して重苦しいものではない。

礼拝は、喜びに満ちたものであるはずだ。
主に栄光を帰すものなのだから。
イエス・キリストに栄光を帰すものなのだから。

日本のクリスチャンたち、
イエス・キリストにより、罪に死んで、命に生きる者とされたのだ、
それなのに、なぜ罪の中に留まろうとするのか。

クリスチャンは、
罪に死んで、命にあって生きているのではないのか。
罪の中にとどまって苦しみ続ける必要などない。

クリスチャンとは、罪の性質から離れた、分離された者なのだから。

教会の礼拝が、喜びに満ちた、心を揺り動かし、魂に触れるものならば、
必ずや、1パーセントの壁を破るに違いない・・・。

「・・・・罪に対して死んだわたしたちが、
どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
それともあなたがたは知らないのですか。
キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、
またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、
その死にあずかるものとなりました。
それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、
わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・6章2~4節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on January 22, 2019.