 
罪について教えない
 
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キリスト教は、罪について考える宗教です。
 しかし日本のキリスト教は、罪について教えないところだと言っていいかもしれません。
 
 私たちは、自分のいる会社や学校や家庭や地域社会の中で、
 人間関係にざまざまな問題を抱えています。
 そして疲れはて、不安は重きを増し悩みの中に沈んでいきます。
 
 自分の置かれている境遇は不完全であり満たされていないと思い苦しみ・・。
 それこそが自分の不幸の原因だと、そもそもの源たと・・・。
 自分の働きが評価されず、まわりから自分の存在すら受け入れられず、
 人と人との関係に疲れたと思うとき・・・。
 
 まわりから認められていないのではないか、
 自分の存在の意味と価値が分からない・・・。
 自分は孤立しているみたいだ・・・、孤独だ・・・。
 
 人はしばしうつろい・・かなえられることのない将来への望みに思いをつのらせます・・・。
 ならば、キリスト教の教会なら、自分の存在を受けとめてくれるだろう、認めてくれるだろう・・・。
 教会なら、自分の居場所を見つけられるかもしれない・・・・。
 
 しかし聖書・バイブルは、すべての人は罪人だと、だれひとり例外なく罪の中にあると言います。
 すべての人は罪の下にある・・・・と。
 
 私が罪人だなんて・・・絶対ありえない・・・罪なんて犯していないのに・・・。
 それどころか、私はまわりから、しいたげられ、いじめられ苦しんでいるというのに・・・。
 
 人は、自分の働きは評価されるもの、認められるものだと、
 まずは自分の立位置からものを見るものです。
 自分の働きは評価されるべきだと。
 
 しかし聖書は、そのようには語りません。
 「一人の人間の罪によってすべての人間が有罪とされたように、
 一人の人間の正しい行為によって、
 すべての人間が正しい者とされ、いのちを与えられたのです。」
 (新約聖書・ローマ人への手紙5章18節・フランシスコ会訳)
 
 すべての人間の始祖であるアダムとイブが神に背き堕落したため、
 その結果、すべての人間が生まれながらに負わされた性質・・・。
 人類はことごとく罪の中をさ迷い歩くことになったと・・・。
 生まれ出てくるすべての人間のひとりひとりが、その罪によって呪われているのだと・・・・。
 ひとりの例外もなく。
 ・・・そんなバカな話は信じられない・・・と多くの人は言うでしょう。
 
 聖書・バイブルが、「罪」を語るとき、
 私たちの不道徳な行為や、法を脱した犯罪のことを言っているのではありません。
 なぜ私たちが思い悩まなければならないような困難な立場に追い込まれるのか・・・。
 そもそも、私たちの人間の苦境が何であるかを語っているのです。
 私たちのあらゆる行為のみなもと、行為の原因を語っているのです。
 私たちは、ときどき罪を犯すのではなく、常に罪深い存在なのです。
 私たちの、ものの見方や考え方ややり方というものは、
 常によくない結果を生み出す危ぶさの中にあるのです。
 つまり、私たち自身の中にある「諸悪の根源」を語っているのです。
 
 それを「原罪・ゲンザイ」と言います。
 
 ですから、私たちが経験する「心の混乱」というものは、
 その「原罪」というものが引き起こす、表にあらわれた状態なのです。
 すべての人間は「罪の性質」を持って生まれてきます。
 そしてその罪の性質が、
 人の思いや言葉や行為や行動となって、
 人にたいして自分にたいして神にたいして過ちを犯すのです。
 つまり、自己中心であったり自分本位というものとなって表れてくるのです。
 もちろん、それ自身、私たちを作られた「創造主なる神」にたいする大きな罪であるわけです。
 
 神の作品としての人間にたいする神の愛の物語は、
 天地創造と、地のちりから人間を造られ、豊かなエデンの園に住まわせられたところから始まります。
 神は、人間を神の愛の下に造られ育まれようとしましたが、
 人間はその愛に背いてしまったのです。
 この背きが、そもそもの人間の罪の始まりなのです。
 作品は作者に栄光を返すために造られるものですから。
 
 「正しい人はいない、一人もいない。
 悟る者はいない、神を求める者もいない。
 皆、道を踏みはずし、役に立たない者となった。
 善いことをする者はいない、一人としていない。」
 (新約聖書・ローマ人への手紙3章10〜12節・フランシスコ会訳)
 
 「人は皆、罪を犯し、神の栄光を受けられなくなっていますが、
 キリスト・イエズスのあがないの業を通して、
 神の恵みにより無償で正しい者とされるのです。」
 (新約聖書・ローマ人への手紙3章23〜24節・フランシスコ会訳)
 
 私たちに問われている罪とは、
 私たち人間が本質的に持っている、
 ・・神に背き、神を神と思わない・・という人間の罪のことなのです。
 私たちがさまざまにわずらい思い悩みます、
 そして自己保身や自己実現を目指すわけです。
 しかし、そこに自分にたいする反省というものがあるでしょうか。
 キリスト教は、人間の本質や本性というものから物事を考えていきます。
 ひとしく人間は神にたいして罪深いわけですから、
 まずは自己点検から始めなければならないわけです。
 私たちがひとしく罪深いと言われてしまえば、そこには「救い」はありません。
 しかし、神は、そのような私たちにたいしてあわれみを示されました。
 神のひとり子イエス・キリストを、私たちの世界につかわされ、
 すべての人の罪を背負って、私たちの身代わりとして罪人として十字架にかかり死刑となり、
 その命をもって、私たちの罪の代価を支払われたのです。
 
 「一人の人間の正しい行為によって、
 すべての人間が正しい者とされ、
 いのちを与えられたです。」
 (新約聖書・ローマ人への手紙5章18節後半・フランシスコ会訳)
 
 私は罪など犯してはいない、自分は絶対に正しいと思っている人には、受け入れ難いことでしょう。
 しかし、今までの自分というものは、何につけ愚かだったと思えるなら。
 父なる神が、私たちを愛してくださっている「神の愛」を、
 神のひとり子イエス・キリストを十字架にかけ、
 その命をもって、私たちを、罪からあがない出してくださった神の愛の出来事を、
 自分にとっても、恵みとして、神のあわれみとして受けとめることができるなら、
 愛されていることを知り、一人じゃないことを知り、
 喜びが心の内から湧きあがってくるはずです。
 
 「わたしたちの内なる古い人間がキリストとともに十字架につけられたのは、
 罪に縛られた体が滅ぼされて、
 もはや罪に仕える奴隷でなくなるためであることを、
 わたしたちはよく知っています。」
 (新約聖書・ローマ人への手紙6章6節・フランシスコ会訳)
 北白川 スー
 http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
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Wrote up on  April 25, 2015.