私たちと向きが違っている愛


 私たちが最も良いと思っているものと、

 神が私たちにとって最も良いものとされているものとは、

 まったく正反対であると言っていいのです。

 神はわたしたちにとって最もよいものは何であるかよくご存じなのです。

 しかし私たちは言います。

 キリストが愛なら、

 なぜ、私を、この苦しみから救ってくれないのか・・・と。

 私たちが苦難に出会うとき、

 いつも言うセリフです。

 なぜ救ってくれないのか・・・と。


 「 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。

 ・・お前はメシアではないか。

 自分自身と我々を救ってみろ。・・

 すると、もう一人の方がたしなめた。

 ・・お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに・・。

 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。

 しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

 (新約聖書・ルカによる福音書・23章39〜41節・新共同訳聖書)


 自分の思う通りにならないときに、

 私たちは痛みと苦しみを覚えます。

 だから救われなければならないと。

 なぜ、罪を認めないイエスは罪人として十字架にかけられたのてしょうか・・。

 私たち人間が正しい存在であるならば、

 私たちの罪を贖う(あがなう)ために、

 神のひとり子・イエス・キリストが、

 私たちに代わって命をささげてくださった出来事は意味を失ってしまいます。

 人間の人生のすべての苦しみや痛みは、

 ”罪を認めない ”ために起きてくるのです。

 自分は罪など犯してはいない、

 自分は正しいから周りから苦しめられるのだと、

 私たちは、ときとして自分を合理化して、

 苦しみや痛みから逃れようとします。

 そうは考えたくはないのですが・・・。

 私たちは、苦しみや痛みから避けないで、

 ま正面から向き合わなければなりません。

 聖書・バイブルは、

 人間の人生の背後には、

 生まれながらに負っている罪があることを明らかにしているのです。

 だから、ひとりの人がすべての人のために死ななければならなかったのです。


 「(旧約聖書には)次のように書いてあるとおりです。

 正しい者はいない。一人もいない。

 悟る者もなく、神を探し求める者もいない。

 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。

 善を行う者はいない。ただの一人もいない。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章10〜12節・新共同訳聖書)


 創造主なる神が、そのひとり子・イエスの命を差し出されたのは、

 被造物としての、私たちの罪が、

 神の心を、それほどまでに痛ませているからなのです。

 私たちは、神の愛を、どれほど知っているのでしょうか。

 イエス・キリストの十字架の出来事に、

 神の愛は示されています。


 「 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

 独り子を信じる者が一人も滅びないで、

 永遠の命を得るためである。」

 (新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on 26 October 2011.