教会の存在感
日本の社会の多数を占める、一般の人たちの中で、
日本のキリスト教の教会のその中で何が語られているのかを知っている人は、
どれだけおられるでしょうか。
それほど多くはないはずです。
多くの人が、教会の中で何について語られているかを知らないのです。
興味すらないかもしれません。
その原因は・・・・なにか。
その原因は、教会からはっきりしたメッセージが聞こえてこない・・・・・からではないでしょうか。
なぜ、和解のわざである・・ イエス・キリストの十字架の出来事が、
” イエスによる贖罪 ” について教会で語られないのか。
それが日本の事情なのかもしれない。
事情には事情があるのだろうけれど・・・・。
キリストの教会は、神の啓示のその中に存在の基礎を持っているはずです。
そうであるならば、イエス・キリストの罪のあがないの出来事・・、
イエス・キリストの十字架の出来事の内容と意味とに、
教会がこの世界に存在している理由が、
そして、その教会の礼拝に人が集まる理由があるわけです。
教会から、はっきりとしたメッセージが聞こえてこないのなら。
そのメッセージに引き寄せられて人が集まるという現象も起きてはきません。
教会に、はっきりとしたメッセージがあってこそ、
教会の存在感というものが生まれてくるのですから。
教会に、だれもが納得できるような、独自の存在理由を持って、
そこに、まぎれもなく存在しているのだという、確かな実感があってこそ、
人はひきつけられもするのです。
それこそが、神のひとり子イエス・キリストが、
すべての人の罪をその身に負い、十字架にかかり、
死をもってその罪の代価を支払った・・・罪をあがなったという出来事なのです。
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事・・・。
その罪とは、神にたいする罪であり、
その罪のかくれた性質が、
私たちの日常の中の、思いとなって、言葉となって、行動となってあらわれ、
神にたいして、人にたいして、自分自身にたいして罪を犯してしまうのです。
人が自分自身の罪深さを自覚したとき、
どのようにして救われたらいいのか、どうすべきか自分でいろいろと探って行くものです。
それが信仰の芽生えなのです。
” キリストによってすべての人が救われる ” という・・・・・、
それがキリストの福音なのです。
それが喜ばしい知らせなのです。
人が自分自身の罪深さを自覚するとき・・・・・、
そのときこそ・・・・、
教会でイエス・キリストの十字架の出来事が語られているときなのです。
ひとりの人が、すべての人の罪をその身に負い、
十字架にかかり、死ぬことによって、
その罪を死をもってつぐなった、
死ぬことによってあがなったという出来事が語られたとき、
人は、自分自身の罪深さを理解するのです。
そして善悪の判断や、常識や、価値観までも、
180度ひっくりかえされる経験をするのです。
「わたしたちすべての者が、
神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、
全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。」
(新約聖書・エペソの信徒へのパウロの手紙・4章13節・口語訳聖書)
イエス・キリストの十字架の出来事について語られないところでは、
罪についても語られることはないのです。
北白川 スー
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Wrote up: 06 August 2009.