世の終わりと十字架とイエス



・・・わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。・・・

なぜだと思うことに、どうしてだろうと。
日本の教会の礼拝の説教において、
取り上げられる機会の少ないテーマですが、
キリスト教の信仰において、もっとも大事な、
何よりも他のすべてに優先して取り上げなければならないテーマです。

キリスト教は終末論に立っています。
そうでなければ、
イエス・キリストの十字架の出来事は意味を失います。

世には始まりと終わりがあること。
世の終わりのときには、必ず神の審判が来ること。
だから、私たちは神の裁きから救われなければならないのです。

世の終わりと、十字架の出来事とイエス・キリストとは、
密接な関係にあります。
世の終わりと、十字架の出来事と、神のひとり子イエスとを、
関係づけることをしないで説明することはあり得ません。

「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

(新約聖書・マタイによる福音書・28章20節・新共同訳聖書)

・・世の終わりまで、いつもあなたと共にいる。・・
このイエスの言葉を受けて、
説教では、・・・あなたと共にいる・・という後半のテーマが強調されがちです。
イエスが共におられる・・安心と励ましの言葉になるからです。
しかし、先ずは、必ず世の終わりが来ることについて説明しなければ、
イエス・キリストの十字架の出来事は説明できません。

世の終わりが来るからこそ救い主イエスが必要とされるのです。
・・いつもイエスは共にいる・・だけで説明されるものではありません。

「 だから、目を覚ましていなさい。
いつの日、自分の主が帰って来られるのか、
あなたがたには分からないからである。」

「 だから、あなたがたも用意していなさい。
人の子は思いがけない時に来るからである。」

(新約聖書・マタイによる福音書・24章42・44節・新共同訳聖書)

世の終わりは、日付が予約されているのではありません。
突如来るのです。思いがけずに。
だから、いつも主イエスから目を離してはいけないのです。

「 更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。
あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。
今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、
救いは近づいているからです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・13章11節・新共同訳聖書)

「 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。
しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、
ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」

(新約聖書・へブル人への手紙・9章26節・新改訳聖書)

暮らしの中で味わう苦しみにたいする励ましの言葉だけが、
信仰の言葉ではありません。

イエス・キリストの十字架の出来事によって、
苦しい事やつらい目に会っても、
苦しみを味わうことなく生きることができるのです。
神の国と永遠の命という希望と、
罪の性質からセパレートされているのですから。

イエス・キリストは私たちを愛し、
その血によって私たちを罪から解き放してくださったのですから。


北白川 スー

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Wrote up on January 29, 2019.