危機感・臨場感にあふれた教会と信仰
イエス・キリストが十字架の上に、手首足首をくぎづけにされ、
死刑となった出来事は、
その姿だけを見ても、たいへんショッキングなものです。
そして葬られ、三日の後に死人のうちから復活したとなれば、
それはたいへんなニュースなのです。
このイエス・キリストの出来事の内容と意味とが ” 教会でメッセージされてこそ ”、
その内容が中味が臨場感にあふれ、
危機感の満ちている出来事だからこそ、
その出来事の内容と意味とを聞いた者にとって、
おどろきと喜びに満ちた表情が、あらわれてくるのです。
このイエス・キリストの十字架の出来事こそ、
この世界を造られた神の、
私たち被造物としての人間に向けられた、
神のメッセージ、
神による啓示そのものなのです。
キリスト教の信仰と教会とは、
その出来事を聞いて初めて起こされ始まったのです。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・10章17節・新共同訳聖書)
まさしく、キリスト教の信仰と教会とは、イエス・キリストの十字架の出来事を聞くことから始まったのです。
この世界を造られた神が、
私たち人間と同じ人間となって、
私たち人間のところへ来られたことによって起きた、
神の人間にたいする、
なすべき態度、なすべき行動・・・によって、
神ご自身を私たち人間に知らしめられた・・・出来事。
その出来事から聞くことによってのみ、
人間が神に聞くということによって基礎付けられ、
支えられていることによって、
教会もこの世界に建っているし、
人間の信仰というものも成り立っているのです。
聞くとは、聞いたことを受け入れ従うことです。
それ以外の動機や目的で教会が建ち、
クリスチャン信仰があるなら、
それはこの世界を造られた神の意思から遠く離れたものなのです。
北白川 スー
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Wrote up on 12 June 2010.