自己義認や自己承認を求めて



家族関係や人間関係に行き詰まり、
悩んだすえ、教会へ相談に来られる方がおられます。
その多くが、自己承認や自己義認を求めてということでしょうか。

自分の思う通りにならない、いらだちや混乱や苦悩・・・。
わけが分からなくなって・・・。

では、
あなたは正しい、間違ってはいません・・・と義と励ましの言葉を与えるのが、
はたして教会の役目なのでしょうか。

その人の生き方にたいする肯定的な励ましを与え、
肯定的な評価を与えることが教会の役目なのでしようか。

聖書・バイブルは、
すべての人間は罪の中にあると、罪人だと。
この世界は、呪われ、罪の中を歩んでいるのだと。
すべての人間は裁かれる対象だと・・・・・。

私たちは、自分を疑うことをしません、
ありのままの自分が受け入れられることを求めます。
罪など犯してはいないと・・・・・。

「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。
決してそうではありません。
私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
それは、次のように書いてあるとおりです。
「義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。
善を行なう人はいない。ひとりもいない。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章9~12節・新改訳聖書)

神のひとり子イエスがこの世界に、
メシア・救い主・キリストとして生まれ来たということは、
この世界は、神の目から見て堕落していることを現わしているのです。

人は罪深い存在であり、その状態から抜け出せないでいるのです。
ひとりの例外などありません。
ですから、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事が、
イエス・キリストの十字架の死による贖いの業(あがないのわざ)、
という出来事が良き知らせ、福音と成りえるのです。

「 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、
なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、
一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。
そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、
一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、
一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章17~19節・新共同訳聖書)

私たちの罪深さというものは、後天的なものではありません。
生まれてから、いつのまにか身についてしまったものではないのです。
社会の悪によって罪深くなったのではありません。

その人が生まれる前から持っている性質、
本性的に負っている性質なのです。

生まれながらに負っている罪深い性質が、
思いや言葉や行為や行動といったものとなって、
自分にたいして、人にたいして、神にたいして罪を犯し続けているのです。

ときどき過ちを犯すから罪深いのではなく、
常に罪深いから、ときどき過ちを犯すのです。

罪深い性質の私たちには、
導き手が必要です。
聞き従う存在が必要となるのです。

それが主なるイエスなのです。
救い主、つまりキリストなるイエスが必要とされるのです。

それが信仰です。
イエスと共に歩み、イエスを聞き従う対象とすることが信仰の始まりなのです。

「 したがって、信仰は聞くことによるのであり、
聞くことはキリストの言葉から来るのである。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・口語訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on January 14, 2019.