落ち着きを求めて
私たち人間の未来は明るく、
人間は成長するものと信じていた。
自分を信じ自分の可能性を生かしていくことこそ、
未来を切り開いていくことが出来るのだと信じていた。
決してキリスト教が言うところの罪人ではないのだ。
しかし、何ごともうまく行かないのが現実なのだ。
挫折があり労苦も多々あるのだから。
混沌とした現代社会の病理の中で・・・。
現代社会の病理に傷ついた者は、
傷つき、自分の居場所を失う・・・。
だからこそ自分の居場所を求めて、
落ち着けるところを求めて、
それも、自分にとっての心地よい落ち着きをさがし求めて、
人は、キリスト教の教会に居場所を求めようと、
教会に足を運び入れる・・・。
教会がそのニーズに答えようとするなら、
イエス・キリストの十字架の死による贖いの業(あがないのわざ)という出来事は、
その意味を失ってしまう。
イエス・キリストが来たのは、心地よい落ち着きをもたらすために来たのではないとご自身は語る・・・。
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。
平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
わたしは敵対させるために来たからである。
人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。
こうして、自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。
わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
自分の命を得ようとする者は、それを失い、
わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
(新約聖書・マタイによる福音書・10章34〜39節・新共同訳聖書)
実際のところ、日本の社会の中でクリスチャンとして生きるには、
あまりにも難しいことなのだ。
クリスチャンとして生きようとするなら、
価値観も、生活の様式さえも異なるのだから。
聖書の記述とおりだと言っても言い過ぎではない。
キリスト教の信仰生活と、
日本の伝統的な生活習慣とは相容れない要素が多すぎるからだ。
両立することも、
一緒に何かをすることも簡単にはいかないのだから。
しかしながら、
聖書は、現状に満足するようにとすすめる。
自分の置かれた境遇に満足するようにと言っている。
しかし、人は自分の置かれた境遇には決して満足しないものなのだ。
それどころか・・・・である。
聖書・バイブルは、社会の構造やシステムを言っているのではない。
人間が満たされて生きていくための真理を言っているのです。
「 乏しいからこう言うのではありません。
私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。
私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。
また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、
あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」
(新約聖書・ピリピの信徒への手紙・4章11〜12節・新改訳聖書)
しかし、そう言われても・・・。
なかなかそうはできないものなのです。
「 召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。
自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。
というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。
同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。
あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。
人の奴隷となってはいけません。
兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい。」
(新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・7章21〜24節・新共同訳聖書)
クリスチャンは、イエス・キリストの十字架の死による贖いの業(あがないのわざ)によって、
贖われ(あがなわれ)、
キリストの命を代価として買い取られたのです。
私たち人間を、永遠の命へと移させる代わりに、
ご自身の命をささげられ、犠牲となられたのです。
ですから、再び重いくびきを負う必要などないのです。
今の社会になじめないから、教会に居場所を求めようとするなら、
キリスト教の教会は決して駆け込み寺ではありません。
キリストの教会は、神の啓示が語られるところなのです。
教会は神の教会であり、決して人間の装置や施設ではないのです。
イエス・キリストに聞こうとするなら、
イエス・キリストは、180度の方向転換を私たちに求めてきます。
”主イエス”によって召された者は、
イエス・キリストを自分の主として受け入れた者は、
自由な身分となったのですから。
現代社会のくびきに縛られることはまったくないのです。
思考や行動を束縛するものではないからです。
まして、血縁や地縁で結ばれた共同体からさえ自由になっているのです。
再び、さまざまなおきてによって縛られているところへ、
わざわざ入っていく必要などありません。
北白川 スー
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Wrote up on 05 March 2011.