もっとも大事な事柄を教会が伝えていないのか


 もっとも大事な事柄を、教会が伝えていないのか・・・・、

 教会が語っていないのか、伝えていないのか、伝わっていないのか・・・・。

 だから、一般社会の人たちの教会を見る目に、

 なんらかの誤解を生みださせているのではないかと・・・・。

 それは、福音について・・・・、

 すなわちイエス・キリストの十字架の出来事が、

 イエス・キリストの死と葬りと復活という出来事が、

 その出来事が、” 神の啓示 ” として起きたことについて・・・・。

 この情報が、このニュースが、この知らせが、

 キリストの教会というイメージに重なり、かつ含まれてはいないのではないかと。

 教会というイメージに重なり含まれていないとすれば、

 それは教会という存在の意味さえ問われるかもしれないのです。

 イエス・キリストが十字架刑により処刑されたという出来事を、

 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事として認識しているのでしょうか・・・・。

 その出来事が、神の啓示として成り立つ原因が、

 この世界を造られた、また人間をも造られた神の、

 人間にたいする怒りと裁きに基づいているのだという・・・・・。

 人間が神に背き続けているという現実を認識しているのでしょうか。

 私たちが教会にたいして抱いているイメージには、

 ” 神 ”というイメージが含まれているのでしょうか。

 この世界を造られ、また私たち人間をも造られた神という存在が、

 神がどのようなお方であるのか分かっているのでしょうか。

 神を考える上で、

 自分たちがどのような存在、またどのような者であるのか分かっているのでしょうか。

 あくまでこの世界を造られた神との関係において・・・・・、

 教会という存在をとらえているのでしょうか。

 教会の外側から教会の内側は見えないけれど、

 しかし、教会において何が語られているのか、

 海からから吹いてくる風にのって聞こえてこなければ、

 人は教会そのものに価値を見いださないだろう。

 そうなれば、教会の存在の意味はない・・・・・・・。

 教会は神を背にして建っているはずである。

 イエス・キリストは、湖のほとりに立って、

 イエスについて来た多くの群集に向かって、

 湖から岸に向かって吹く風に言葉を乗せて語られた・・・・・。


 「 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。

 おびただしい群衆が、そばに集まって来た。

 そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。」

 (新約聖書・マルコによる福音書・4章1節・新共同訳聖書)


 神の吹く聖霊の風に乗せて、

 キリストの教会は福音を語らなければならないのです。


北白川 スー

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Wrote up: 26 October 2009.