福音とは何か
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イエス・キリストへの信仰を発露させるものこそが福音であるわけです。
キリストの福音を聞いた人の気持ちなどが、
自然と日常の態度や行動の変化となってあらわれるようになるのです。
では、そのキリストの福音とは何なのかと思いをめぐらせば、
それは、間違いなく、
神のひとり子であるイエス・キリストが、
人としてこの世界に生まれ来て、
罪を認めないにもかかわらず、
罪人として十字架につけられ、
処刑され、葬られ、三日の後に死人のうちからよみがえった、
復活したという出来事です。
キリストとはメシアのことです。
この世界に ”メシア・救い主 ”・イエス・キリストが生まれ来たということは、
この世界を造られた神の目から見て、
この世界が堕落していることをあらわしているわけです。
すべての人間が、逃げることも救われることもできない状態でなければ、
救い主・イエス・キリストがこの世界に生まれ来る必要などないのですから。
「 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、
信じる者すべてに与えられる神の義です。
そこには何の差別もありません。
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、
神の恵みにより無償で義とされるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章23〜24節・新共同訳聖書)
神のひとり子イエス・キリストが十字架刑により罪人として処刑されたということは、
それは、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事なのです。
すべての人の罪を、その身に負われ、
私たちに代わって、神の怒りをその身に受けられたという出来事です。
神の被造物として、神の作品である、すべての人間が、
神の怒りから逃げることも救われることもできない状態にあることを示しているのです。
だから私たち人間は神の怒りから救われるために救い主を必要としているのです。
だから、この世界を造られた神は、
究極の選択と態度の決定という、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事が起きたのです。
それほど私たち人間は罪に染まっているのです。
人間の始祖であるアダムが神に背いて、
禁断の木の実を取って食べたことにより楽園から追放され、
信頼すべき存在を失ってしまったのです。
それ以来、アダムに続く人間はことごとく、
地上を労苦し、さ迷い歩かなければならなくなったのです。
迷いの中をさ迷い歩いている私たちの、
すべての人の人生に影響を与えているものは、
私たちの思いや、言葉や、行為行動といったものに強く影響を与えているものこそ、
このような事に原因があるのです。
この真理は、あまりにも信じがたいものだから、
人によっては、そんなばかげた事があるはずがないと思い込ませる内容のため、
多くの人は、その真理を見逃してしまうのです。
イエス・キリストの十字架の出来事が信じられないと思っていても、
自分の生き方を信じて疑わない人であっても、
自分自身を客観的な目線で見ることができれば、
自分自身の思いや言葉や行動などに疑いの姿勢を持てれば、
キリストの福音へ一歩近づいたことになるかもしれません。
「 正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、神を探し求める者もいない。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章23〜24節・新共同訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on 07 July 2011.