人間の苦悩や苦境・・正体は人間の罪の性質
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不安、悩み、苦しみ、痛み、思いわずらい、とらわれ、孤独、・・・・などなど。
私たちは常にさまざまな苦悩を覚え、
苦境に追い込まれています。
自分の生き方が受け入れられない苦しみに苦しみ・・・。
身の置き場に苦しみ、必要とされない苦しみ・・・。
・・苦悩している人間の姿こそ自然であり、
そこに魂の純粋性があるのだとご批判をいただきます。・・
どうして人間はさまざまな苦悩を覚え苦境に追い込まれてしまうのでしょうか。
聖書・バイブルは、
どのようにして苦悩や苦境に追い込まれたのかという経緯いきさつではなく、
その背景には、目には見えない深い原因があるのだと、
その苦悩や苦境の正体は何であるかを語っているのです。
あわせて、苦悩からの苦境からの救いを語っています。
聖書・バイブルは、
人間の苦悩や苦境の原因と起源とを、
私たち、ひとりひとりの人間の生は、
罪によって呪われていると・・・語るのです。
”罪によって呪われている ”・・・。
つまり、私たちの人生は、
生まれながらに罪深い性質を持って生まれてくるのだと。
この罪の性質というものを”原罪・ゲンザイ”と言います。
原罪が、思いとなり言葉となり行為や行動となって、
自分にたいして、人にたいして、神にたいして罪を犯し続けているのです。
それが人間の歴史であり現実の姿なのです。
人の罪深さという性質は、
人が認識できるような明確な形であらわれるものではありません。
だから苦しむのです。
”言うにいわれない苦悩 ”として、私たちを苦しめるのです。
決して人はその状態から逃れられないのです。
「 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、
あなたの豊かなあわれみによって、
私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
どうか私の咎を、私から全く洗い去り、
私の罪から、私をきよめてください。
まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。
私の罪は、いつも私の目の前にあります。
私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、
あなたの御目に悪であることを行ないました。
それゆえ、あなたが宣告されるとき、
あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。
ああ、私は咎ある者として生まれ、
罪ある者として母は私をみごもりました。」
(旧約聖書・詩篇・51編1〜5節・新改訳聖書)
人間の罪の性質は、
ことの起こりは、最初の人間であるアダムが神の意志に背いて、
取って食べると死ぬといけないから取って食べてはいけないと命じられていた・・・、
禁断の果実を取って食べたというエデンの園の出来事に始まります。
結果、神の怒りにふれ、楽園から追放され、
人間の生に死が入ってきたのです。
死を背負って生きて行かなければならなくなったのです。
最初の人間に続く人間たちは、
だれひとりの例外もなく生まれながらに罪によって呪われて生まれてくることになりました。
「 人は皆、
罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、
神の恵みにより無償で義とされるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章23〜24節・新共同訳聖書)
人間の肉体は死で終わることとなったわけです。
人間は死ぬまで罪深い性質を背負って生きていかなければなりません。
しかし、
創造主なる神は、神の作品であるところの人間にたいして大きなあわれみを明らかにされたのです。
それが、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事。
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのです。
このイエスの出来事こそ神との和解の出来事なのです。
この神との和解の出来事の上に立って人生を歩めるとしたら、
(3)「 イエスは答えて言われた。
はっきり言っておく。
人は、新たに生まれなければ、
神の国を見ることはできない。」
(6)「 肉から生まれたものは肉である。
霊から生まれたものは霊である。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章3・6節・新共同訳聖書)
今までの考え方ややり方ではなく、
新しい価値観のもとで生きる・・・・。
イエス・キリストに聞き従う生き方。
イエス・キリストの十字架の死と葬りと復活という出来事・・・。
イエス・キリストとともに古い自分を死にわたし、
イエス・キリストと葬られ、
イエス・キリストと共に死人のうちから、
新しい人間として復活する・・・・。
今までの自分の生き方ややり方ではなく、
自分の主としてイエス・キリストをむかえ、
主イエスに従う人生、
ごく控えめだけど洗練された人生を送る・・・・。
「 口でイエスは主であると公に言い表し、
心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、
あなたは救われるからです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9節・新共同訳聖書)
多くの場合、人は、
自分のこれまでの働きを評価されない苦しみを覚えるものです。
その評価を求めて、また自分の生き方にたいして好意的に、
また肯定的な言葉や励ましを求めて、
キリスト教の教会にやってきます。
キリスト教の教えは、人間の罪をテーマとしているのですが、
自分の評価を求める人にたいして、
”あなたは罪人だ ”と言えば、
その人を傷つけ、つまづかせてしまいます。
だから言えない・・・。
しかし、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事は、
まぎれもなく、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事です。
神への罪から救うために、
イエス・キリストは、すべての人に代わって、
罪をその身に負い、十字架にかかって死なれたことによって、
私たちの罪を贖ってくださったのです。
「 なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。
わたしたちはこう考えます。
すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、
すべての人も死んだことになります。」
(新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章14節・新共同訳聖書)
人間の苦悩や苦境は、
まわりが悪いのでも、
社会の環境が悪いのでもなく・・・・。
私たち人間ひとりひとりの罪深さに原因があるのです。
北白川 スー
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Wrote up on September 13 , 2012.