教会が語る福音とは


 キリスト教の教会がメッセージする「福音」というものは、

 福音を語ることによって世界の中に立っている教会が、

 世界に、社会に向けて語り伝えようとしている内容は、

 まぎれもなく、

 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事のなのです。

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事の内容と意味なのです。

 ・原罪・人間の罪について、生まれながらに負っている罪深さについて、

 罪の赦し、神の裁きからの救い、

 救われることによって永遠の命へ移されるという、

 来るべき時への希望について・・・。

 それが良き知らせであり、

 福音以外のなにものでもないのです。

 イエス・キリストの十字架の出来事によって、

 私たち人間の前に明らかにされた事柄なのです。


 「 実に、信仰は聞くことにより、

 しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳聖書)


 しかし、こと日本では・・・・。

 どうも様子が異なるようなのです。

 日本の社会で暮らす私たちの、

 キリスト教の教会にたいする見方は・・・どうなのでしょうか。

 日本の人たちは、いったい何を期待して教会にやってくるのでしようか。

 教会は、日常のさまざまな必要に答えるところでしょうか。

 心の病を負った人たちをケアするところなのでしょうか。

 現代社会の病理に傷つた人たちの居場所となるところなのでしょうか。

 それらが教会の大切な働きであったとしても、

 決してすべてではありません。

 教会は、社会の中で、

 それらの人たちの受け皿として機能するところなのでしょうか。

 それらの人たちの生き方にたいして肯定的な言葉や態度を示すところなのでしょうか。

 多くの人たちは、

 相手が自分の気持ちを分かっていて当然だと思っています。

 さらに、言ってもらいたい答えを待っているものです。

 それが、その人にとっての福音なのです。

 人というものは、

 自分の持っている考え方ややり方から、

 自分の持っている価値観から自由になれないものです。

 そうであったとしても、

 キリストの教会が、それらの必要に答えるところではありません。

 キリストの教会は、まぎれもなく、

 神の啓示が語られるところなのです。

 この世界を作られた創造主なる神が、

 被造物である人間にたいして語り示された、

 神の意志というものを語り伝えるところが教会なのです。

 教会は、”神の教会 ”だからです。

 人間の施設でも装置でもありません。

 教会で語られる、

 バイブル・聖書は、神の言葉の書だからです。

 私たちができることは、

 ただ、神の啓示の証しに基づいて、

 つまり、イエス・キリストの十字架の出来事という神の証しに基づいて、

 啓示を与えられ、受け止め、受け入れ、

 ただ承認することだけが求められているのです。

 神が人間のところに来られて、

 人間のものとなられたという啓示において明らかにされた、

 神の、被造物としての人間にたいする、

 究極の選択と態度の決定という内容なのです。

 そして、そのことによって生じてくるもの、

 それが教会であり、クリスチャンなのです。

 私たち人間の、

 人間の持っている同じ感情や意志といったもので、

 教会が作られ、

 同じ意志を持つ者を、

 教会に集めているのではありません。

 あくまで教会は、神の教会なのです。


 「 キリストは、神の身分でありながら、

 神と等しい者であることに固執しようとは思わず、

 かえって自分を無にして、僕の身分になり、

 人間と同じ者になられました。

 人間の姿で現れ、

 へりくだって、死に至るまで、

 それも十字架の死に至るまで従順でした。

 このため、神はキリストを高く上げ、

 あらゆる名にまさる名をお与えになりました。

 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、

 イエスの御名にひざまずき、

 すべての舌が、

 ・・イエス・キリストは主である・・と公に宣べて、

 父である神をたたえるのです。」

 (新約聖書・ピリピの信徒への手紙・2章6〜11節・新共同訳聖書)


北白川 スー

関連記事・「イエス・キリストの十字架」

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Wrote up on 01 November 2011.