神、すなわち福音の神



私たちが神を考えるとき、
ひとつの物に、さまざまな物に、
事柄に、
見えるものや見えないものに、
かつて生きていた人に、
自然の中などに神を考えます。
神というものが、私たちの想像の中に、作り出されるのです。
かつては猫でさえ神としてあがめられたのです。

聖書・バイブルが言うところの神は、
神ご自身の、究極の選択と決断という、
イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)のわざという、
具体的な行為の中に告知され、
神ご自身の本質と、その存在を明らかにされたのです。

キリスト教の信仰とは、その神にたいする信仰そのものなのです。

もしもその信仰が、神のおどろくべき行為を語ることを止めて、
十字架やキリスト像といった物や、
キリスト教的だと言われる行為や行動に、精神世界などに、
信仰を見出そうとするなら、
信仰者自身の信仰の対象を見失うことになるのです。
それどころか、自由や解放と言ったものではなく、
入信以前に増して、混乱と苦痛を味わうことになるのです。

「実に、信仰は聞くことにより、
しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳聖書)

キリストへの信仰というものは、
キリストの生と死と葬りと復活という出来事に、
聞き、受け取り、考え、承認し、語っていくことに、
そのことにおいてこそ、
生き生きとした信仰が生まれ育まれ、
自らの過去に苦しみ押しつぶされることなく、
新しきを恐れず、
喜びをもって明日に向かってチャレンジできるのです。

自分の今の存在と、
自分自身の思いや言葉や行為といったものとが矛盾せず、
まったくの統一性を手にすることができるのです。

クリスチャンという存在は、
キリストという生きる証しとしての対象から、
常に与えられる熱きものに絶えず身をさらし、
そこから身を引くことの許されないのが信仰なのです。
それこそが、キリストと共に生きる、
生きている神に聞き従う信仰、
生きた信仰なのです。


北白川 スー

関連記事・「キリストへの信仰」

表紙にもどります。

アーカイブスへ。


http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
su-kitashirakawa Official Website
Wrote up on December 25, 2016.