主の祈り・御名があがめられますように



私たちは「 主 」なる神を敬い崇めることを、
遠いものとして忘れ去ってしまった。
神に背き楽園から追放されて以来、
地上をさ迷いあるくことになった人間たち、
自分たちを創造され、
自分たちの導き手であった、神である”主 ”を離れ、
崇めることすら忘れ去ってしまった。
勝手気ままに歩む私たちには導き手など必要とはしないのだ。

御国が来ますように・・と祈るが、
御国とは、
決して、世俗での平安で豊かな満ち足りた暮らしでも、
また世俗での成功でも繁栄でもない。

来たるある日、再び、キリスト・イエスが栄光と共に、
この地上に来られる日・・・。
そして、主のもとに集められる日・・・。

私たちが、なぜこの地上に居なければならなくなったのか、
なぜ、再びキリスト・イエスが来られるのか、
その理由がすべて明らかになる日と言っていい。
この祈りは、キリストの再臨を祈り待つとも言える。

「さて兄弟たちよ。
私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、
私たちが主のみもとに集められることに関して、
あなたがたにお願いすることがあります。」

(新約聖書・テサロニケの信徒への第2の手紙・2章1節・新改訳聖書)

キリストの福音は、
本質を明確に言語化された内容を持つものであり、
曖昧な神の言葉など存在しない。

主の祈りは、毎日曜日のあいさつ文ではない、
もっとも重要な、信仰を決定づける祈りなのです。


北白川 スー

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Wrote up on August 22, 2014.