十字架はシンボルですか



キリスト教の教会のシンボルは十字架です。
十字架を見つければ、そこには教会があります。
十字架は何を意味しているのでしょうか。
決して、ただのシンボル、ただの飾りではありません。

十字架は、
イエス・キリストが手首足首を釘で打ちつけられ死刑となった十字架です。
そして、葬られ、三日の後に死人のうちから復活したという・・。
イエスの復活をあらわす十字架なのです。

十字架は死のシンボルであり、かつ、よみがえり・復活のシンボルなのです。
すなわち、新しい命への希望というしるしなのです。

それは、ある状態から、別の状態へ移されることを意味しています。
今あるところにとどまり続けることではありません。

「 彼の肉体なる幕をとおり、
わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、
はいって行くことができるのであり、」

(新約聖書・ヘブル人への手紙・10章20節・口語訳聖書)

イエスは、ご自身を犠牲にして、
新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。

イエス・キリストの死の意味するところは、
人間の弱さ愚かさを身にまとい、
身をもってその弱さ愚かさを死に渡したことを物語っているのです。
私たちが生き生きとした新しい道を受け取るには、
今にとどまるのではなく、
やり直しが、方向転換が必要だということです。

キリストを信頼して、
クリスチャンとして名実ともに、内容の伴った、
名前と実質とが、評判と実際とが、違うことなく、
生きて行くことを示すことなのです。

それは、人間的な空しい努力ではなく
自己否定や自己批判というものではなく、
修行や行為を積み重ねるといった目に見えるものではなく、
自分の可能性を信じて生きて行くのではなく、
イエス・キリストに信頼して、
キリストの言葉に聞き従っていく人生を歩むということなのです。
持てるあらん限りの信頼をキリストによせるということなのです。

神頼みをあてにしてとか、
宗教の力を借りてというものではなく、
さらに高く、さらに狭い門を目指してということであり、
さらなるモチベーションを求めるものなのです。

それはストイックで禁欲的なものなのかもしれません。
そうではなく、力を抜いた、楽なものなのかもしれません。

心の平安というものは、
はげましやなぐさめの言葉によって得られるのではありません。
自分の正当性や、自己肯定によって得られるのではありません。
心が安らかになるのは、
内なる精神性が変えられることによって得られるのです。

「 死者の復活もこれと同じです。
蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、
蒔かれるときは卑しいものでも、
輝かしいものに復活し、
蒔かれるときには弱いものでも、
力強いものに復活するのです。
つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。
自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」

(新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・15章42〜44節・新共同訳聖書)

十字架の死は、
血肉のからだが死に渡され、御霊に属するからだに復活することを意味します。

内なる精神性が変わらなくては、
思いや言葉や行動すら変わらないのです。

キリスト教は、とても高い普遍的な価値観をあらわしています。
自分を信じて、自分の可能性を信じて、
自分を支えに生きてきた者にとって、
聖書・バイブルの普遍的な高い価値観は、
それは高いハードルであるに違いありません。

信仰は、何よりもまず、
キリストに聞くことから始まることを忘れないでください。
キリストに聞かずして信頼することなどできません。

仮にキリストに聞かない信仰があるとすれば、
それは空をつかむようなものなのです。
どこへ行くのか分からない、
行く道の定まらない不安定なものなのです。


北白川 スー

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Wrote up on December 09, 2013.