信仰は対症療法ではない
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クリスチャンであろうがなかろうが、
人生において、苦しいこと、辛いこと、悲しいこと、心痛むこと、
それは、常のこととして色々とあります。
多くの場合、目の前にあることに応じて、
いま起きていることに応じて、
今ある結果の上に立って解決を試みようとします。
当然のこととして、自分の考えや態度や姿勢を正しいものとして、
今ある自分の位置を譲ることを良しとはしません。
クリスチャン的な言い方をすれば、
どんなに祈っても自分の思う通りにはならない、
思うように事が運ばない・・・ということでしょうか。
それが神の意志にかなっていなければならないのです。
原因とか理由を考えて改めようとはしないのです。
今を改めようとはしないで、
今を招いた原因を明らかにしないで、
今ある状態に留まり、引き返すことをせず、
新たな道を見い出そうとはせず、
方向を変えようとはしないのです。
”行ないのない信仰は”むなしいものなのです。
信仰を働かせない信仰は実質がないものと同じなのです。
聖書・バイブルが言う行ないとは、信仰を働かせることなのです。
信仰を働かせないなら、
残るのは、苦しみとか、辛さとか、痛さとか、悲しみだけなのです・・・。
聖書・バイブルが指し示しているのは、
人間社会の色々な問題を、欠陥を、
人間関係のごたごたを、
人間性の欠陥にさかのぼって突きとめようとすることです。
私たち人間は、生まれながらに罪深い性質を持って生れてくるのです。
ですから、
自分は、すっかり迷っていることに気付くこと、自覚すること、
そうしなければ、迷いから抜け出すことはできません。
クリスチャンであっても例外ではありません。
キリストへの信仰というものは、
キリストの十字架の出来事によって、
・・迷いから覚めさせてもらった・・という経験をすることです。
そうしなければ、心からの喜びとか、
キリストへの感謝は生れてはきません。
まして、創造主なる神を讃えるということなどおきません。
「罪人を迷いの道から連れ戻す人は、
その罪人の魂を死から救い出し、
多くの罪を覆うことになると、知るべきです。」
(新約聖書・ヤコブの手紙・5章20節・新共同訳聖書)
”罪人を迷いの道から引きもどす”出来事こそ、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという出来事なのです。
あなたは、その場に居合わせましたか。
北白川 スー
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
Wrote up on April 21, 2014.