遠のく真理への道



芸術であれ音楽であれ舞踊であれスポーツであれ信仰であれ、
日本には特別なものがあって、
なぜか、日本では何事も本物にはならない。
何が本物なのかという問いかけもありますが。
送り手も受け手も、当の本人たちは、
それが、見苦しいものであることに気付かず、
それが本物から遠くかけ離れているとは思っていない。
まわりも、それが無害で微笑ましいものであるかのようにお茶を濁している。
実は、知らずに気付かずに真理への道を妨げているのである。
それを容認すれば、到底、本物に近づくことはない。
気付いている者は、別に外にストイックに実行している。

多くの人は、決して実現するものではないことを認めようとはしない。
自らが方向を転じなければ何も変わらないことを知っている。
実現するには多くの障害や隔たりが待ち構えていることを知っているからである。

クリスチャンでさえ、現代の豊かさは、
祝福であり神の恵みだとさえ思っている。
何ものも、神から与えられたものだと思っている。
しかし、時代の豊かさは、
また、その中で生まれてきた様々な問題は、
すべて私たちの罪深さの産物なのです。

創造主なる神が与えたもうたものは全て善いものである。
しかし、それを使いこなすのは罪深い人間たちであることを忘れてはならない。

ときとして、私たちは過酷な運命と出会うことになる。
人は言うだろう。
神が正義なら、どうして過酷な運命を与えるのか・・・と。
どこまで自分を義だと善だと言い続けるのだろうか。
過酷には原因と理由があることを忘れてはならない。

神は決して甘くはない、きびしい方である。
神は、私たちが真理を見出すことを求めている。
それが、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
神の究極の決断と態度の決定という出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者は裁かれない。
信じない者は既に裁かれている。
神の独り子の名を信じていないからである。」

(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16〜18節・新共同訳聖書)

私たちは、細かいことや重要でないことに気を取られて、
本質を見失っているのではないだろうか。


北白川 スー

関連記事・「イエス・キリストの十字架」

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Wrote up on April 12, 2014.