信仰が現実のものとなるとき



この日本では、キリスト教の教会は社会から浮き上がっていると言っていい。
関心もなく、害はないと思っている。

地域社会や職場の人間関係や家庭内の不和などという悩みを多くの人は抱えています。
だから、孤独感から教会に救いを求めてやってくる・・・。
一般社会の中で居場所を失ない孤独となった人たちが、
教会に居場所を求めることになる場合が多く見られるのも日本の特徴なのかもしれません。

教会が、一般社会から離れたコミュニティーを形作ることもあるわけです。
信徒の教会生活と、一般社会生活とを区別して、
教会の外との交流や交渉などを嫌いさけてしまうことも多く見られます。

しかし、本来、そうあるべきこととして、
キリスト教の信仰を持つということは、
難しく言えば、
聖書的な価値観が理性の発露をうながすものなのです。
感覚や感情に動かされないで、
聖書の価値観に基づいて論理的に考えたり、
ものごとを判断できるようになります。

聖書・バイブルの価値観を身につけた人は、
物事がよく見えるようになります。
決して、理性が黙ってしまうものではないのです。
その逆で、社会的な活動に大きな影響を与えるものなのです。
キリストの福音を聞き、身につけた者は、
聖書・バイブルの価値観が、
態度や行動にあらわれてくるものなのです。
人生を暮らしを支える大きな力となるのです。

「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、
そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。
この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、
こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、
神の栄光をたたえることになるのです。」

(新約聖書・エペソの信徒への手紙・1章13〜14節・新共同訳聖書)

しかし、こと日本では、
多くの場合、聖書・バイブルの教えが、
つまり、神の啓示、キリストの福音が、キリストの十字架の出来事が、
正確に受け止められていない現実がありますから、

ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事が、
つまり、福音が説かれず解き明かされていない現実がありますから、

キリスト教の信仰が、社会から浮き上がったものになっているのです。
本来は、キリスト教の信仰は、社会にたいして大きな影響を与えるのです。
経済や教育や医療など、あらゆる社会の分野に影響力を持つものなのです。

しかし、正確にキリストの十字架の贖罪の出来事が解き明かされない場合は、
教会にやって来た人たちにたいして、
また、教会の外にある多くの人たちに、
聖書・バイブルの価値観を、
理解させもっともだと認めさせることなどできないのです。

キリストの福音を聞き、
福音を受け入れて信仰を持ちたいと思うのではなく、
キリスト教の信仰を信仰したいという気持ちで、
教会に歩を進める人もいます。
そのような人にたいしてキリストの福音が語られないなら、
その信仰は不完全燃焼になりかねないのです。
精神を欠いた、人間を支えることのない見せかけだけのものになるのです。

キリストの福音を聞き、理解し受け入れた者は、
聖書の価値観に基づいて、
自然に態度や行動に現われるものなのです。

しかし、一般社会で生きて行く場を失い、
教会に居場所を見出した人にとっては、
よほどのことがないかぎり、
教会の外へ、社会へ打って出ることなどできません。

キリストの福音が、十字架の出来事の内容と意味とを、
理解しないで、納得しないで、
そのまま受け取られるべきものとして、
信仰を求める魂に受け入れられることなく、
福音を語り伝えて行くことなど無理があります。

それほどキリストの十字架の死による贖罪という出来事の、
内容と意味とを理解することは困難なのかもしれません。

だから、くりかえしくりかえし説かれ解き明かさなければならないのです。

「実に、信仰は聞くことにより、
しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on August 30, 2014.