神の究極の選択・キリストの十字架



チャペルの十字架、胸元を飾るクロスにロザリオ、
なにごともなく毎日のようにくりかえされる見なれた風景です。
しかし、日本ほど、その見なれた十字架の意味するものが、
何を意味しているのか、何のための十字架なのか、
明らかにされていない地域社会は、
他に例を見ないのではないでしょうか。
見なれた十字架は、
イエス・キリストが十字架の上で死刑となった出来事をあらわしているのです。
しかし、その事実こそ広く知られていないのではないでしょうか。

ひとりの人がすべての人のために死んだという、
キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事こそが、
私たち人間にたいする、天地万物を創造された、
私たち人間をも創造された、
父なる神の究極の選択と態度の決定という出来事だとしたら。

ことは、エデンの園にいるアダムとエバの話にさかのぼります。
神は、最初の人間を創造され、エデンの園に住まわせ、園を耕せます。
そして、神は人に命じて言われました。

「 主なる神はその人に命じて言われた、
・・・あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。
しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。
それを取って食べると、きっと死ぬであろう。・・・」

(旧約聖書・創世記・2章16〜17節・口語訳聖書)

人間を創造された神は、
最初の人間をエデンの園に住まわせ園の管理にあたらせました。
ただし、ひとつだけきびしい注意事項があったのです。
善悪を判断する力のつく木の実だけは、
絶対に取って食べてはいけないと命じられたのです。
そして、その禁止事項をやぶれば、必ず死ぬと。

善悪の知識の木の実を取って食べると、
正しいことと間違ったこと、
良いことと悪いことの区別について、
自分勝手な判断を下すようになると。
それは、死に値することなのだと、神は言われたのです。

しかし最初の人間は、
神が食べることを禁じられていた禁断の果実を取って食べてしまうことになります。
このようにして、人間は神に逆らい、神の怒りにふれ、
エデンの園から追放されることとなったのです。

その結果、地は呪われ、
人間は生きるために労苦して働かなければならなくなりました。
そして、人生は、必ず死をむかえることとなったのです。

それからの人間というものの歩みは、
天地万物を創造された神への反抗の歴史となります。

またそれは、人間を創造された神の苦悩の始まりなのです。
人間の、神に屈しようとしない意志と行為を、神は憎まれました。
その後、神は、いくどとなく私たち人間に警告され、命じられ、告げられたのです。
しかし、神の叫びにもかかわらず、
人間は神に背を向け続けたのです。
あくまでも神に背く人間にたいする神の苦しみは極限に達しました。
神の忍耐も限度に達したとき、
神は、私たちを打つための怒りの手を振り上げられました。
しかし、その手は、直接に、私たちには来なかったのです。
神は、ただひとりの罪を認めない人間、
神ご自身の愛する子、イエス・キリストに、
その怒りの手を下されたのです。
神は、怒りの手をイエス・キリストに向けて打たれたのです。

イエス・キリストは、神の怒りを買った私たちのために、
代わって神の怒りを受け止め、十字架の上で死なれたのです。
私たちの身代わりとなって・・・・。

そのために、神ご自身がイエス・キリストを人として、
私たちの世につわされたのです。

「 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、
実に十字架の死にまでも従われたのです。」

(新約聖書・ピリピの信徒への手紙・2章6〜8節・新改訳聖書)

神ご自身のひとり子イエスが、
父なる神の意志と正しさに従われたとき・・・、
神の怒りは静められたのです。

神ご自身が、ひとり子イエス・キリストの死という代価をもって、
私たちと和解されたのです。

これが事のてんまつです。
キリストの十字架の出来事は、私たちに課せられた死を打ち破り、
再び永遠の命を私たちに実現させようとされた、
神の究極の選択と態度の決定だったのです。

「 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、
世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。」

(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16〜17節・新共同訳聖書)

私たちのできることは、
あまりにも近すぎて、
また、あまりにも遠すぎて見落としている、
”その歴史の当事者 ”だということを知ることなのです。

私たちに残された選択肢は、
天地を創造され、人間をも創造された父なる神の前に、
いかに立つかということだけなのです。

イエス・キリストの十字架の出来事における、
神の愛を受け入れて、永遠の命に移されるか、
それとも、永遠の滅びに落ちるのか・・・・。

この日本、いまだに永遠の滅びへの道筋に多くの人が群がっています。
向きを変えさせなければなりません、
それがクリスチャンの役目なのです。
すべての人に向けて明らかにされた、
神の究極の選択と態度の決定という出来事を、
神の啓示を知らせなければならないのです。


北白川 スー

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Wrote up on December 02, 2013.