信仰と、具体的な人間の営みとの関係
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クリスチャンとして日々の暮らしを営んでいますと、
日本における信仰生活は、
どうも日本的な、
独特なものがあるのではないかと思わされる機会が多い・・。
聖書・バイブルは、
イエス・キリストの十字架の出来事は、
神の価値観や意思といったものは世界標準であると語っています。
つまり、ひとりの人がすべての人のために死んだのですから。
「 わたしは福音を恥としない。
それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、
すべて信じる者に、救を得させる神の力である。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16節・口語訳聖書)
だから、世界の中の日本という位置づけで、
グローバルな、地球的な、世界的な位置づけで教会や信仰のあり方を考え、
また見なければ聖書的だとは言えないのではないだろうか・・・と。
日本という地域社会の特徴や特色は存在しているのは確かです。
しかし他の国や社会とに比べて特に目立つ違いがあっても、
その違いに固執し、押し通そうするのは、聖書の世界観から外れたものになるのではないだろうか・・・・と。
世界のキリスト教をとりまくニュースは、
どういう理由なのか、この日本には伝わってはきません。
大きく世界は動いています。
もとろんキリスト教をとりまく情勢も大きく動いています。
こと日本のキリスト教界の特徴を見てみると。
日本の社会において、
教会というところが負わされている役目があります。
一般の人は当然のように見ています。
それこそが教会の役目であるかのように・・・・。
現代社会の病理の中で、
苦しんでいる人や傷ついてしまった人たちの、
また、心に病を負ってしまった人たちの、
受け皿としての働きを、
教会はになうべきだと。
日本のキリスト教の教会は、
経済的にも人的にも微力であるにもかかわらずにです。
確かに、その働きは大切なものです。
しかし、それがすべてではありません。
聖書が示すキリスト教の教会は、神の啓示が語られるところです。
世界的な地球的な物差しで神のビジョンが語られるところです。
教会は、世界標準なのです。
言いかえれば、さまざまな人たちが出入りできるところです。
言葉や肌の色の違いを超えた、広がりのあるところです。
ところが、こと日本では、
ある特定の価値観を教会に求めているような・・・。
本来、キリスト教の教えは、
人間というものは自分の持っている価値観があります。
その価値観が自分自身を苦しめることもあるのです。
その価値観から解き放つことを、
自由になることを示しているのです。
人は、それぞれに自分の物差しを持っています。
自分なりの価値観を持っているものです。
その物差しをもって自分を、また人を、また社会を測ります。
それが、その人の生き方を決定づけるものなのです。
しかし聖書・バイブルは、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事は、
神によるモラル、
神によるファンデーション、
神によるプラットホームを示しているのです。
もともと神によって素晴らしいものとして創られた人間・・・。
しかし、最初の人間は、
神に背いたことにより楽園から追放されます。
さらに地上も呪われてしまいます。
人間は堕落し、
地上を労苦してさ迷い歩かなければならなくなります。
しかし神は、それを良しとはされませんでした。
神は、神の愛を示され、
再び神と結びあわされた状態へ導こうと、
究極の選択と態度の決定という、
神のひとり子イエスを救い主として地上につかわし、
そのイエスの上に、私たち人間に代えて、
神の怒りを下されたのです。
そのイエス・キリストに聞き従う信仰によって救いへと導こうと・・・・。
「 そのときから、イエスは、
・・悔い改めよ。天の国は近づいた・・
と言って、宣べ伝え始められた。」
(新約聖書・マタイによる福音書・4章17節・新共同訳聖書)
天の国、すなわち神の支配、
神の価値観のもとでの、
被造物としての人間として生きよ・・・・と。
北白川 スー
関連記事・「イエス・キリストの十字架」
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Wrote up on 27 July 2011.